長崎の原爆遺跡を巡る②―2018年 九州北部一周の旅・part24

5日目・前編2(2018年12月19日)
~長崎の原爆遺跡を巡る②~

(「長崎の原爆遺跡を巡る①―2018年 九州北部一周の旅・part23」の続き)

旅行5日目の行程:9:40 長崎駅10:15 長崎の原爆遺跡を巡る(いまここ!)→15:30 眼鏡橋→16:00 グラバー園→19:00 夜の稲佐山→21:00 長崎駅(泊)

〈長崎の原爆遺跡を巡る 詳細〉
爆心地公園 → 長崎原爆資料館長崎原爆死没者追悼平和祈念館(いまここ!)→ 市内に残る原爆遺跡 → 平和公園(平和祈念像地区) → 旧城山国民学校校舎

長崎の原爆遺跡を巡る②

長崎原爆死没者追悼平和祈念館

時刻は12時過ぎ、私は長崎原爆資料館の裏手の広場にやってきました。原爆資料館の裏手の広場はきれいに整備されており、石碑が置かれたり水が流れたりしていました。

次に向かうのは長崎原爆資料館の裏手にある「国立 長崎原爆死没者追悼平和祈念館」という施設。長ったらしい名前の施設ですが、この施設は原爆による多くの死没者の犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するための施設ということなので、こちらにも足を運んでみることにしました。

始めは下の写真1枚目のオレンジの建物がそうかと思いましたが、こちらの建物は長崎市歴史民俗資料館などが入る長崎市平和会館という建物。

どこにあるのだろうと思ってネットで調べてみると、どうやら長崎市平和会館の向かい側、下の写真の草木で覆われた場所にあるようでした。

これは分からん(笑)と思いながら近づく(上の写真左手のエメラルド色の看板近く)と敷地への入口がありました。

入口から道なりに進むと、泉のエリアになっていました。

これは「水盤」という施設。長崎での原爆投下の折に爆風や熱線によって瀕死の重傷を負った人々が「水を」「水を」とうめき声を上げながら死んでいきました。このようにして亡くなった原爆死没者のために水をたたえる水盤が設置されたとのこと。

追悼平和祈念館の建物内部への入口はここから水盤沿いに約3/4周したところにありました。

入口の階段を降りて最初にやってきたのは地下1F。被爆者などが寄せた手記も展示されていたり、地下2Fにある追悼空間を見下ろすことができる窓が設置されたりしていました。

そしてさらに階段を降りると追悼空間のある地下2階に到着します。地下2階には遺影・手記閲覧室や交流ラウンジなどもありますが、一番のメインとなるのは原爆により亡くなったすべての方々を追悼する「追悼空間」というエリア。

追悼空間の中にはたくさんのガラス柱が建てられ、神殿を思わせるような厳かな雰囲気でした。私はこの場所で原爆により亡くなった方々、そして平和への願いを胸に黙祷をしました。

市内に残る原爆遺跡を巡る

長崎原爆追悼平和祈念館を後にした私は、市内に残る原爆遺跡を巡りました。事前の調べでは主だった原爆遺跡は平和公園周辺にあるようなので、ここを拠点に歩いて巡りました。

山王神社 一本柱鳥居(原爆遺跡)

平和公園の原爆資料館地区から歩くこと約7分、坂の街・長崎にふさわしい細い路地の階段を上っていくと、頂上に鳥居らしきものが見えてきます。

しかしよく見ると鳥居の左半分がなくなっています。

この鳥居は長崎の原爆遺跡の一つである「一本柱鳥居」で、もともと山王神社にあった4つの鳥居(一の鳥居~四の鳥居)の一つでした。

しかし1945年に原爆が投下されると、爆心地から約800m離れた山王神社の社殿は倒壊し、三の鳥居と四の鳥居も完全に倒壊しました。一方で、爆風に対して並行に立っていた一の鳥居と二の鳥居は全壊を免れました。一の鳥居はほぼ原型のまま残され、そして二の鳥居は爆風により左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に一本柱の鳥居として残されました。

原型のまま残されていた一の鳥居は1962年に交通事故で倒壊しましたが、二の鳥居は被爆当時の姿のまま今に残されており、原爆の威力のすさまじさを示す貴重な原爆遺跡の一つになっています。

また近くには吹き飛ばされた鳥居の左半分の残骸も置かれていました。

こうして一本柱鳥居や吹き飛ばされた残骸を見るといかに凄い衝撃だったかを思い知らされます。

山王神社 被爆クスノキ(原爆遺跡)

一本柱鳥居から細い路地を奥に進んで突き当りを左に曲がると、このような石碑が立っていました↓

詳細は省きますが、どうやらこの道は旧・浦上街道という江戸時代の頃の主要道路だったようです。

その街道を沿いには、「坂本町民原子爆弾殉難之碑」が建てられていました。後で調べたところ、この石碑は原爆で倒壊した山王神社の三の鳥居の柱の一部が用いられているそうです。

そしてこの石碑の横に一本柱鳥居の所有者である山王神社の入口があります。

旧・浦上街道沿いに建つ山王神社は原爆で社殿が倒壊したものの再建され、現在も残されています。

そんな境内の入口に立つしめ縄が吊るされた2本の大きな木。

これは山王神社境内に残る原爆遺跡である2本の大クス(被爆クスノキ)。

1945年の原爆投下によって山王神社の社殿は完全に倒壊しましたが、入口に立っていた2本のクスノキは奇跡的に原型をとどめました。とは言え原爆の爆風により幹には大きなき裂が生じていた上、熱線により表面を焼かれていたため枯れ死寸前でした。しかしそこから枝葉を生やして樹勢を回復、2018年現在では立派な大クスに成長し、長崎市の天然記念物にも指定されています。

この2本のクスノキを見上げてみると、両方とも真上に生えている中心の幹は黒くなっており、その周りに新たな枝葉が生えていることが分かります(上のクスノキの写真)。あくまでも憶測ですが、中心の幹は被爆当時に枯れてしまった幹で、その後から新たな枝葉が生えて一回り大きなクスノキになっていると思います。そう考えると、植物の強い生命力を感じさせられます。

また右側のクスノキには階段が取り付けられていて、そこからは原爆によって開けられたクスノキの空洞を覗くことができます。

この空洞の中には原爆によって飛ばされたという小石が多数入っていました。つまり原爆により幹が大きく変形して穴が空き、その中に大量の小石が注ぎ込まれたことを表しています。

原爆により表面が焼かれたり大穴やき裂が形成されたりしながらも、こうして2本のクスノキが立派に残っているのはすごいことだと思いました。

※ちなみに長崎出身の歌手・福山雅治の曲「クスノキ」はこの山王神社の被爆クスノキをモチーフに作られた楽曲だそうです。また被爆クスノキは原爆による内部の空洞化と枝葉の成長による巨大化によって倒壊しやすくなっていることから、福山雅治のオフィシャルHPでは「クスノキ募金」を行い、この被爆クスノキを始めとする長崎市内の被爆樹木の保全活動資金の寄付活動を行っているそうです(2020年10月時点)

旧長崎医科大学付属病院 正門跡

山王神社から旧浦上街道を通って坂を下ると、六差路の交差点に出ます。通ってきた旧浦上街道の左手には、長崎大学歯学部へと続く坂が見えてきます(長崎大学 坂本キャンパス2 歯学部正門)。

この赤れんがの壁の左手に、「旧長崎大学医学部附属病院正門跡」と書かれた石碑が置かれていました。

この坂の上には今現在「長崎大学 坂本キャンパス2」と「長崎大学病院」がありますが、戦前には前身となった旧長崎医科大学付属病院(1949年より長崎大学医科学部附属病院)がありました。加えてこの丘から100mの谷を挟んだ北側の丘には旧長崎医科大学がありました(現在は長崎大学 坂本キャンパス1)が、原爆により爆心地から約700m前後にあった大学・病院はいずれも壊滅的な被害を受けました。

このうち病院の方では鉄筋コンクリ造の建物であった病棟などは倒壊は免れましたが、内部は爆風により完全に破壊されて炎上しました。これにより病院と隣の丘の大学にいた教授・医師・学生・看護婦・職員など合わせて890名余りが死亡、入院患者約300名のうち約200名が死亡する惨事となりました。
(※長崎医科大学の被害は次に紹介します)

説明看板の写真に映る被爆直後の病院はまさに廃墟同然でした。

旧長崎医科大学門柱(原爆遺跡)

先ほどの六差路の交差点のうち、正門跡の碑の左手に延びる路地を進むと医学部通りに出ます。この医学部通りを少し北に進むと、現在の長崎大学 坂本キャンパス2と長崎大学病院の正門が見えてきます。

正門奥には長崎大学病院が見えていますが、私は旧長崎医科大学に残る原爆遺跡を見るために正門左手の路地を進んでいきました。

地図を頼りに歩くこと数分、細い上り坂の先に大学の建物が見えてきます。そしてそのまま進むと古びた2本の柱が見えてきます。

右手の丘には今現在「長崎大学 坂本キャンパス1」があり、上の写真の場所はその裏門にあたります。しかし戦前のこの場所は前身にあたる旧長崎医科大学の正門でした。

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旧長崎医科大学では、上でも書いた通り附属病院が壊滅的な被害を受けましたが、大学はそれを上回る大惨事でした。被爆当時、大学構内の建物は講義棟も含めてほとんどが木造でした。そのため原爆により講義棟も含むすべての木造建物は倒壊し炎上しました。原爆投下時には1年生と2年生が5つの講堂でそれぞれ講義中でしたが、そのほとんどが一瞬で死亡。生き残った者も1ヶ月以内に放射能の影響で全員亡くなり、講堂で受講していた生徒は全員死亡したそうです。この5つの講堂の焼け跡からは、教授は教壇に、学生は席に着席したままの姿で白骨となって見つかるなど、病院を上回る凄惨な現場と化していました。

病院と大学では職員・生徒併せて890名余りが死亡したことは先ほども書きましたが、このうち約400名は5つの講堂で亡くなった1年生・2年生の生徒たちでした。

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そんな旧長崎医科大学の正門は、戦前は下の写真のようにおしゃれな飾りが内側に付いていましたが、原爆により内側の飾りや内門柱は吹き飛ばされました。

その吹き飛ばされた内門柱は現場近くに横たえて置いてありました。

2本の立っている門柱のうち、右側の門柱は山かげになっていたため無事でした。

一方、左側の門柱は柵で囲われており、近づいてみると柱の後ろ側が台座から持ち上がっていました。

台座と柱の間には黒焦げた何かが挟まっており、これにより傾いたまま自立しているようでした。私は生でこれを見ましたが、かなりショッキングな光景でした。

※ちなみに説明看板によると後ろ側は16cm上がっているそうですが、この門柱の持ち上がり量から原爆による爆風の圧力を推定したそうです。その圧力は爆心地から500mの地点で1平方センチあたり1kg。これを人間が受けた力にざっくり換算すると最大で約7トン(正面から受けた場合)。凄まじい力を受けていたことが分かります。

浦上教会(旧・浦上天主堂)

旧長崎医科大学の門柱を見学した後は、元来た道を戻って長崎大学病院正門のある医学部通りに出ました。ここからは医学部通りを北に向かって歩きます。

門柱から歩くこと約8分、前回の爆心地公園の記事で紹介した浦上教会(旧・浦上天主堂)の入口が見えてきました。

前回の記事でも紹介しましたが、戦前この地には浦上天主堂という教会が建てられていました。赤レンガ造りの大きな教会で、当時は「東洋一の教会」と謳われていました。しかし爆心地から500mしか離れていなかった浦上天主堂の教会は正面玄関や南側の壁の一部を残して完全に破壊されてしまいました。

その後、残っていた壁の一部は爆心地公園に移設され、残りの壁は取り壊されました。そして1959年に浦上教会として新しいレンガ造りの教会が建てられて現在に至っています。

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浦上教会へと続く上り坂はかなり急でした。その途中には石碑や像が置いてありました。

そしてカーブを曲がり終えると正面には大きな赤レンガ造りの浦上教会が見えていました。

すごい立派な建物だな…と思って近づこうとしたとき、坂の途中の左手に石像があるのに気が付きました。

近づいてみると、石像は灰色にくすんでおり、一部の石像では頭や上半身がもぎ取られていました。

これは被爆当時から残る石像だそうで、原爆によって倒壊はしなかったものの黒く焦げたり頭が吹き飛ばされたりしていました。当時の浦上天主堂の建物は全て解体されましたが、今でも浦上天主堂には原爆の凄まじさを示す遺跡が残っているのです。
(他にも原爆により吹き飛ばされた浦上天主堂の鐘楼が敷地内のどこかに転がっているそうです)

そして浦上天主堂の正面までやってきました。

事前の調べで中を見学できることを知っていたので、正面から建物内に入りました。教会の中は写真撮影禁止とのことなので写真は残していませんが、後方から聖堂を見学できるようになっており、聖堂やステンドグラスがとてもきれいだったと記憶しています。

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浦上教会を後にした私は入り口まで戻ってきました。

この後は平和公園に向かうのですが、これだけ歩いてきたので平和公園からかなり離れてしまっただろうと思っていました。しかし実は平和公園と浦上教会はわずか500mしか離れておらず、上の写真の正面の道路(浦上天主堂通り)を歩けばいいことが分かりました。

私はこの通りを歩いて平和公園へと向かいました。

 


5日目の途中ですが、今回はここまでとなります。

この後は、平和公園の平和祈念像地区を訪れ、最後に10数年前の修学旅行でも訪れた原爆遺跡・旧城山国民学校校舎を訪れますが、続きは次回の記事に書きたいと思います。

 

続きは現在執筆中です。

「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら

 

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