5日目・前編1(2018年12月19日)
~長崎の原爆遺跡を巡る①~
(「夜の長崎・出島散策―2018年 九州北部一周の旅・part22」の続き)
旅行5日目の行程:9:40 長崎駅(いまここ!)→10:15 長崎の原爆遺跡を巡る→15:30 眼鏡橋→16:00 グラバー園→19:00 夜の稲佐山→21:00 長崎駅(泊)
〈長崎の原爆遺跡を巡る 詳細〉
爆心地公園 → 長崎原爆資料館 →長崎原爆死没者追悼平和祈念館 → 市内に残る原爆遺跡 → 平和公園(平和祈念像地区) → 旧城山国民学校校舎
長崎の原爆遺跡を巡る①
長崎駅~平和公園停留場
午前9時40分頃、私は長崎駅前のホテルを出て歩道橋の上にやってきました。この日の長崎の朝は澄み渡った青空で、稲佐山を始めとする山々がくっきりと見えていました。
- 朝の長崎駅前。左手奥の一番高い山がおそらく稲佐山だと思います
- 長崎電気軌道 長崎駅前停留場
- 二手に分かれる長崎電気軌道の線路
- JR長崎駅
- 長崎電気軌道 長崎駅前停留場
- JR長崎駅 4代目駅舎
- 長崎駅前高架広場
- JR長崎駅駅舎の駅名標
朝の長崎駅前を写真に収めた後、私は路面電車の停留場(長崎駅前停留場)へと向かいました。
- 長崎駅前停留場
- 長崎駅前停留場 駅名標
平和公園・赤迫方面行きの列車を待っていると、前面に猫のマークが描かれた青色の電車がやってきました。
- 長崎駅前停留場に入線する路面電車「みなと」
この列車は「みなと」と名付けられた路面電車で、JR九州の「ななつ星in九州」の車両などを手掛けたデザイナーによってデザインされた路面電車だそうです。
「みなと」の車内は他の路面電車と異なり木を用いた内装が施されたり、窓ガラスの一部にステンドグラスがはめ込まれたりとおしゃれなデザインをしていました。
- 路面電車「みなと」の車内
- 路面電車「みなと」に用いられたステンドグラス
- 路面電車「みなと」の車内後方の様子
- JR長崎駅で購入した長崎電気軌道の一日乗車券
そんな列車に乗ること約10分、列車は平和公園停留場に到着しました。
- 平和公園停留場(赤迫方面ホーム)
- 平和公園停留場(長崎駅前方面ホーム)
- 平和公園停留場 駅名標
- 平和公園停留場前の踏切。奥の高架橋はJR長崎本線の線路で
平和公園停留場はその名の通り長崎市にある平和公園の最寄り駅で、線路と交差する道路を東側に30mばかり進むと、国道206号越しに平和公園の入り口が見えてきます。この日の前半はここを起点に長崎の負の歴史である原爆にまつわる資料館や平和公園、遺跡などを巡ってきました。
長崎の原爆投下 概要
さて長崎の平和公園や原爆遺跡を巡るにあたり、長崎への原爆投下に至る経緯などを簡単に見ていきます。
第二次世界大戦末期の1945年、欧米諸国を相手に戦争を繰り広げていた日本はかなりの劣勢に立たされていました。一時期支配していた東南アジア圏の領土をほぼ奪い返された上、日本本土への総攻撃を受けていました。1945年3月の東京大空襲を始めとする日本各地への空襲(※空襲…戦闘機による地上への爆弾投下などの攻撃)や1945年3~6月に行われた沖縄戦での敗北などで多くの犠牲者を出し、軍としても旧日本海軍最強と言われた戦艦・大和を失うなどかなりのダメージを受けました。加えて同盟国であったドイツ・イタリアも1945年5月までに降伏し、日本は中立同盟(日ソ不可侵条約)を組んでいた旧ソ連(今のロシア)を除くほとんどの国を敵に回す形になっていました。
そんな状況下でしたが、旧日本軍は降伏を拒否して戦闘を続けていました。これに対してアメリカ軍は1945年8月6日、広島に当時開発されたばかりだった原子爆弾の投下を行いました。
原子爆弾(以下、原爆)とはニュースでよく耳にする核兵器(核爆弾)の一種で、これまでの空襲で用いられていた一般の爆弾とは大きく異なりました。一般の爆弾は火薬の爆発をエネルギー源としているのに対し、原子爆弾はウランやプルトニウムなどの核分裂反応をエネルギー源としています。核分裂反応によって生じるエネルギーは火薬によるエネルギーより桁違いに大きく、実際に落とされた原爆一発で大都市であった広島を破壊することができるほどでした。加えて核分裂反応によって放出された放射能は人体に強い悪影響を与えたため、原爆から生き残った人も長い期間苦しめられ続けることになりました。
8月6日の広島への原爆投下では、当時の広島市の人口35万人のうち約14万人が死亡(1945年12月まで)したとされ、爆心地から半径2km以内の範囲の建物はほとんど破壊されるなど、広島は市内全域に渡って壊滅的な被害を受けました。
そして1945年8月9日の午前11時2分、アメリカ軍は2発目の原爆を長崎市内に投下しました。本来は長崎市街地を狙ったそうですが長崎上空を覆っていた雲による視界不良のため、原爆は市街地から北方に約3km離れた長崎市北部の松山町上空で爆発しました。長崎市内での死者数は約7万人(1945年12月まで)に上り、多くの学校(小学校から大学まで)を含む数多くの建物が破壊されるなど長崎市内もまた甚大な被害を受けました。
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さて日本では同じく8月9日に、これまで日ソ不可侵条約により中立姿勢を示していた旧ソ連が条約を破り北海道北方や大陸にあった日本領(南樺太、千島列島、満州国)に攻撃をし始めました。
この最後の中立国であった旧ソ連による攻撃、そして2度に渡る原爆投下を受けた日本は1945年8月15日に降伏し、第二次世界大戦が終結しました。
戦後、原爆により一面焼け野原になった長崎市の浦上地区は70年は草木は生えないだろうと言われました。しかしそんな中でも長崎の街は着実に復興していきました。世界に2箇所しかない原爆被爆地の一つとして、そして人類史上最後の被爆地として原爆の悲惨さを伝え、戦争なき平和な世界と核兵器の廃絶を願い続けています。
平和公園 概要
そしていま目の前に見えている平和公園は、このような悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと世界平和の願いを込めて1950年に作られた公園で、長崎市に投下された原爆の爆心地(落下中心地)付近に作られました。
- 長崎の平和公園(平和祈念像地区) 入口
- 平和公園 案内板
平和公園は広義には5つの地区から構成される公園で、メインである平和祈念像地区(一般に「平和公園」と言った場合にはこの地区を指す)を中心に、原爆の爆心地に作られた原爆落下中心地地区(通称「爆心地公園」)、長崎原爆資料館などの建つ長崎原爆資料館地区などがあります(詳細は上の2枚目の写真参照)。
今回の旅行では他の原爆遺跡も含めて下記の順番に見学していきました:
爆心地公園 → 長崎原爆資料館 → 長崎原爆死没者追悼平和祈念館 → 市内に残る原爆遺跡 → 平和公園(平和祈念像地区) → 旧城山国民学校校舎
そして原爆の悲惨さと被害の大きさを目の当たりにしていくことになりました。
※原爆遺跡の旅行記は3回に渡って書く予定ですが、内容は旅行記らしからぬヘビーな中身になっていますのでご容赦ください。
爆心地公園
入り口
国道206号を渡った私は、平和祈念像地区の南側に隣接する原爆落下中心地地区(通称「爆心地公園」)を訪れました。爆心地公園の入り口に立つ木々は色づいており、12月であるにも関わらず秋を感じさせる陽気でした。
- 爆心地公園 入り口
- 爆心地公園 入り口
奥に進むと開けた場所に出ます。ここが爆心地公園です。
- 爆心地公園
聖徳寺灯篭(原爆遺跡)
その左手(だったと思うのですが)には1対の灯篭が立っていました。
- 聖徳寺灯篭(原爆遺跡)
- 聖徳寺灯篭の説明板
こちらの一対の灯篭は上の説明看板に書かれているように、聖徳寺というお寺にあった灯篭です。聖徳寺は爆心地から南南東に約1.5km離れた天保山にあったお寺ですが、原爆によってお寺の本堂は完全に倒壊し、この1対の灯篭だけが残っていたそうです。
長崎原爆落下中心地碑
そして爆心地公園のメインである原爆落下中心地にやってきました。
- 爆心地公園の原爆落下中心地
その中心には黒の御影石でできているという「長崎原爆落下中心地碑」が建てられており、裏にはレンガつくりの碑も建っていました。
- 長崎原爆落下中心地碑
- 長崎原爆落下中心地碑
- 長崎原爆落下中心地碑
いま(2018年訪問当時)から約73年前、この地点の真上の上空約500mの地点で原子爆弾がさく裂したのです。そう考えるだけで少し怖くなるほどでした。
私が訪れたとき、上空には澄み渡った青空が広がっていました。その青空の元で私はこの原爆により亡くなった方を偲んでしばらく黙祷しました。
浦上天主堂遺壁(原爆遺跡)
原爆落下中心地碑の近くには倒壊しかかったレンガ造りの柱らしきものが残されています。
- 浦上天主堂遺壁(原爆遺跡)
- 浦上天主堂遺壁(原爆遺跡)
- 浦上天主堂遺壁の裏手に置かれた千羽鶴
こちらは柱ではなくレンガ造りの壁の一部が残されたもので、元々は爆心地から約500m離れた浦上天主堂の建物の一部でした。当時の浦上天主堂は1925年に完成した赤レンガ造りの教会で、当時は「東洋一の大聖堂」とも謳われた大きな教会でした。しかし原爆によって浦上天主堂は正面玄関や南側の壁の一部を除いて完全に破壊され、見る影もなくなってしまいました。
その後、被災した建物は1950年代まではそのままの姿で放置されたそうですが、1958年に新しい教会の建設のために撤去され、その際に残された壁の一部が爆心地公園へと運び込まれました。その裏手には平和を祈る千羽鶴も置かれていました。
なおかつての浦上天主堂があった場所には新たなレンガ造りの教会が建てられ、今は浦上教会となっています(後ほどこちらも訪れました)。
爆心地公園 南側
この後は原爆資料館方面に向かって爆心地公園を南下しました。歩いてみると、色々な説明看板や石碑が置かれていました。少し遅めの秋空の元での散策でしたが、どこか神妙な気持ちになっていました。
- 被爆直前の爆心地周辺の地図
- 原爆による被害マップ
- 原爆落下中心地の案内看板
- 1945年10月当時の原爆落下中心地の標柱
- 爆心地公園の様子
- 被爆50周年記念事業碑。長崎の原爆で亡くなった7割が罪のない女性や子供などであったことから、50周年の節目に子を抱く母親の像が作られました
- 被爆50周年記念事業碑の説明看板
下の川周辺
この後は長崎原爆資料館へと向かうのですが、爆心地公園から長崎原爆資料館に向かうためには公園東側を流れる川を渡る必要がありました。
その橋の近くには被爆当時の惨状を物語る写真が掲載されていました(下の写真1枚目)
- 下の川周辺の被爆当時の様子
- 下の川
- 下の川にかかる橋
写真には一面焼け野原になった爆心地・松山町が映されていました。そして説明文によると当時の松山町には住民約1860人が住んでいましたが、原爆投下時に町内にいた人のうち、生き残ったのは偶然防空壕にいた9歳の少女一人のみで、それ以外は全員即死したことが書かれていました。壊滅した松山町は灼熱地獄と化し、辺り一帯には黒焦げの死体が幾つも転がっていたそうです………
長崎原爆資料館への道
川を渡り切ると、目の前には原爆資料館へと続く長い階段がありました。その階段の途中には原爆を偲ぶ石像や犠牲者の慰霊碑などが幾つも設置されていました(各詳細は説明看板の写真をご覧ください)。
- 原爆資料館へと続く階段とエレベーター
- 平和を祈る子の像
- 電気通信労働者 原爆慰霊碑
- 電気通信労働者 原爆慰霊碑 説明看板
- 追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑
- 追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑 説明看板
- 原爆殉難者慰霊碑
- 原爆殉難者慰霊碑 説明板
- 長崎誓いの火
- 長崎誓いの火 看板
- 長崎誓いの火 メッセージ
階段を上り切るとその少し奥にもう一つののぼり階段がありました。その手前にも多くの石碑などが設置されており、色々な方々の原爆犠牲者への想い、平和への想いを強く感じました。
- 平和の母子像
- 平和の母子像 説明看板
- 高台に設置されていた像たち
- 設置されていた石碑たち
そして階段を上り切って振り返ると、紅葉で色づいた爆心地公園の木々や長崎市内の山々を一望できました。
- 階段の上から望む長崎の山々
そして道路を挟んだ反対側には次の目的地である原爆資料館が見えてきました。
長崎原爆資料館
建物・入り口
- 長崎原爆資料館 入り口
長崎原爆資料館は、その名の通り長崎に投下された原爆による被害状況や当時の資料を保存・展示している建物で、長崎の原爆被害を知る上では欠かせない施設になっています。建物の入り口の脇には様々な団体から寄贈された千羽鶴が掲げられていました。
- 長崎原爆資料館
- 長崎原爆資料館 入り口
- 長崎原爆資料館 入り口横に掲げられた千羽鶴
- 長崎原爆資料館 入り口横に掲げられた千羽鶴
入り口の自動ドアをくぐると、吹き抜けのエリアになっていました。
- 長崎原爆資料館 入り口
原爆資料館の常設展示室は地下2Fにあるのですが、そこへと向かうには螺旋のスロープをゆっくり下る形になっていました。そのスロープの壁面には2000年から遡る形で年号が振られており、一番下に着くと1945年、つまり原爆投下当時に遡れるようになっていました。
- 常設展示室へと向かうスロープ
- 常設展示室へと向かうスロープ(下から撮影)
こうして地下2階に着いた後はチケットを購入します(2018年当時は200円)
- 長崎原爆資料館のチケット
そしてそのチケットを手に常設展示室へと入りました。
常設展示室Aゾーン(1945年8月9日)
常設展示室に入ってまず目にするのは、時計の枠や文字盤などが大きく変形してしまっている柱時計。
- 11時2分を指して止まった柱時計
その時刻は原爆が投下された11時2分を示していました。
(※写真では斜めから撮影したのと文字盤も変形しているので少しずれているように見えています)
この柱時計は爆心地から約800m離れた山王神社近くの民家にあったもので、原子爆弾のさく裂と同時に変形・破損して時を止めたままになっていました。今から70年以上前のあの日に何が起きたかを如実に物語っています。
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次に見えてくるのは「被爆前の長崎」と題された写真展示。ここでは原爆投下前に撮影された長崎市内の様子や学生などの集合写真が写されていました。
そしてその隣には米軍によって撮影された長崎への原爆投下の様子が映像として流れていました。この原爆の投下によって、隣の写真展示にあるような長崎の日常が一瞬で崩壊してしまったのです。
常設展示室Bゾーン(原爆による被害の真相)
続くBゾーンでは原爆被害の恐ろしさや悲惨さを思い知らされました。
まず見えてくるのは、薄暗い部屋に置かれた原爆遺跡の数々。
- 旧制瓊浦中学校の給水タンク(原爆遺跡)の脚の部分。原爆によって金属製の脚がよれよれに曲がってしまっている
薄暗い部屋だったため写真写りが良いのは上の写真(旧制瓊浦中学校の給水タンク、爆心地から約800m)だけでしたが、他にも爆風により根元から折れ曲がった火の見やぐら(爆心地から約250m)、高熱により木の部分が炭化した淵国民学校遺壁(爆心地から約1.2km)、爆風により折れ曲がった三菱長崎製鋼所の鉄骨アングル(爆心地から約800m)など多くの原爆遺跡が展示されていました。
特に上の写真のようによれよれに曲がってしまった給水タンクの脚の部分や、折れ曲がった鉄骨アングルなどは見ていて衝撃的でした。
ちなみに原爆遺跡が置かれた薄暗い部屋の奥には、光に照らされた浦上天主堂の側壁が展示されていましたが、こちらは再現模型だそうで原爆遺跡ではなかったです。
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次の部屋は比較的明るめの部屋で、色々なものを展示していました。
- 長崎に投下された原爆(ファットマン)の模型
- 長崎に投下された原爆(ファットマン)の模型
- 被爆した長崎の街のモニター上映
上の写真のように原爆の爆風(もしくは熱風か)が広がっていく様子などが再現された長崎の地形模型や、忌まわしき長崎の原爆の模型なども展示されていましたが、特に印象に残ったのは、原爆による被害を写した写真や焼け残った遺品の数々でした。
今回の記事ではその中で特に印象に残ったものを紹介していきます。
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まずはこちらの写真↓
- 板壁に残ったはしごと監視兵の影
爆心地から4.4kmも離れた軍の要塞司令部の板壁を写した写真ですが、その壁面にはしごと人(監視兵だそうです)の影が黒く残っています。これは原爆による熱線をはしごや監視兵が受けたことによってできた影みたいなものだそうなのですが、熱線を浴びた監視兵はその後無事だったのか気になるところです(少し調べてみましたが、詳細は不明でした……)。
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- 原爆により溶けた硬貨
こちらは原爆による熱線を受けたことで溶けた硬貨だそうです。ぐにゃぐにゃに曲がっていたり、真ん中のかたまりのように溶けた硬貨同士がくっついてしまったりしていました。
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- 原爆により亡くなった女子学生の弁当箱
こちらの写真は原爆により死亡した女子学生が持っていた弁当箱だそうです。この女子学生は爆心地から約700mのところにいたそうです。そんな彼女が持っていた弁当箱(おそらく鉄製かアルミ製)はすすだらけになり、中身は黒焦げになっていました。これが彼女の遺品だと考えるといたたまれない気持ちになります。
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そして以下は原爆投下後に撮影された長崎の街や建物の数々。
- 原爆投下後の長崎の街(山里町~城山町)
- 原爆投下後の爆心地付近の様子
- 長崎県庁の残骸(奥)と長崎地方裁判所の焼け跡(手前)(爆心地から3.3km)
- 浦上第一病院(現在の聖フランシスコ病院)の残骸(爆心地から1.4km)
- 原爆投下翌日の爆心地付近。奥に見えるのは長崎本線の線路か。写真をよく見ると黒焦げになった焼死体を何個か確認できる
- 被爆した電車の鉄橋。爆風により元あった場所から大きくずれているそうです。
- 長崎刑務所浦上刑務支所(現在の平和公園の丘、爆心地から300m)
- 城山国民学校(爆心地から500m)。鉄筋コンクリ製の建物だったため全壊は免れたものの、一部は後の風雨で崩れてしまっている
住宅などがたくさん建ち並んでいたであろう街は完全に焼け野原になり、レンガ造りや鉄筋コンクリでできた強固な建物たちはどれも廃墟同然の有様でした。それを見るだけでもかなりショッキングな写真たちでした。
また上の写真の5枚目のように焼け野原の中には亡くなった方々が黒焦げのまま転がっていました。死者7万人以上、負傷者7万人以上。その方々の無念や苦しみを思うと改めていたたまれない気持ちになります。
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ここまでBゾーンのメインエリアの展示物を一部紹介しました。しかしBゾーンにはもう一つ通路のようなエリアがあり、そこでは原爆から生還した方々が経験したおぞましい体験談が書かれていました。
- 被爆者の証言
- 被爆者の証言
上の写真はその一部ですが、どちらも中身は被爆した家族が苦しみながら亡くなるまでの様子を書いたもので、読むのさえ辛くなってくるほどでした(結局全部の証言読むことはできませんでした)。
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この後は常設展示室のCゾーン(核兵器のない世界を目指して)があり、そこでは戦前から現代に至るまでの核兵器開発の歴史や、核兵器を作る際に被爆した開発者たちの苦悩が書かれていたそうですが、ここまでのBゾーンの展示物で打ちのめされた私はふらふらとCゾーンを通り抜け、常設展示室を後にしました。
企画展示室(平成30年度 原爆資料館収蔵資料展)
そんな状態で最後に訪れたのは企画展示室。
- 企画展示室
私が訪れた時に展示されていたのは、被爆当時に県立長崎女学校で教師をしていた角田京子さんという方が付けていたという工場日記や安否確認ノートでした。
- 角田京子さん関連資料 説明文
- 角田京子さんが記録した安否ノート
工場日記の方には当時工場で働いていた女学生たちの出欠席や勤務中の事故、空襲警報が鳴った時刻などが書かれていたそうです。そして安否確認ノートには角田さんが被爆後の市内を歩き回って確認した320名余りの安否情報が書かれていたそうです。
そんな角田さんでしたが、被爆から9日後の8月18日に高熱を出し、9月7日に帰らぬ人となりました(享年31)。
常設展示室で打ちのめされた状態で見たのであまり資料の詳細は覚えていませんが、印象には残ったようでこうして写真に一部ですが収めていました。
屋上展望所
この後は館内のベンチでしばらく休んでいました。20分ほど休んで打ちのめされていた状態から少し立ち直ってきたので、館内の売店を覗いた後で、最後に屋上展望所へと向かいました。
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時刻は12時頃。展望スペースは爆心地を含む長崎北部の街に向けられていました。その一角には被爆直後の焼け野原の長崎の街を写した写真が置かれていました。
- 被爆直後の爆心地付近の写真
そしてその写真の背後には70年以上の時を経た現在の爆心地を始めとする長崎市北部・浦上地区の街並みが広がっていました。
- 屋上展望所から望む現在の長崎の街
あのとき焼け野原だった街には多くの建物が建ち、緑にあふれていました。私はしばらく昔の焼け野原の写真と比較しながら今の長崎の街を眺め、そして平和への祈りを捧げました。
1日目の途中ですが、今回はここまでとなります。
ここまでかなりヘビーな中身で読むのが辛くなった方もいたと思います。実際、私も訪問当時かなりショックを受けた記憶があります。しかしこれは全て70年以上前に起こった現実の話なのです。そう考えると二度と戦争が起こらないでほしいと思わずにはいられません。
この後は、原爆資料館に隣接する原爆死没者追悼平和祈念館を訪れたり、長崎の街中に残る原爆遺構を歩いて巡りますが、今回の記事はここまでとなります。
続きは「長崎の原爆遺跡を巡る②―2018年 九州北部一周の旅・part24」へ
「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら
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