4日目・後編(2018年12月18日)
~夜の長崎・出島散策~
(「シーサイドライン・JR大村線の旅―2018年 九州北部一周の旅・part21」の続き)
旅行4日目の行程:7:30 佐世保駅→8:10 松浦鉄道(有田側)→10:00 平戸ミニ観光→12:30 松浦鉄道(佐世保側)→14:10 佐世保駅→15:00 JR大村線・長崎本線→18:00 長崎駅→19:00 夜の長崎観光(出島散策)(いまここ!)→21:00 長崎駅(泊)
夜の長崎・出島散策
長崎電気軌道(長崎駅前~出島)
ホテルに荷物を預けて少し休憩した私は、19時頃にホテルを出ました。
夜の長崎駅前は多くの車で賑わっており、その合間を縫って長崎電気軌道の路面電車が駆け抜けていました。
- 長崎駅前の様子
- 長崎駅前を走る路面電車(中望遠で撮影)
- 歩道橋から見る長崎駅前。遠くに見えるのはJR長崎駅 4代目駅舎
- 歩道橋から見る長崎電気軌道 長崎駅前停留場(中望遠で撮影)
歩道橋の途中にある階段を下ると、長崎電気軌道の長崎駅前停留場のホームに降りることができます。ホームには会社帰りのサラリーマンが列を作っており、私はその最後尾に並びました。
- 長崎電気軌道 長崎駅前停留場
- 長崎電気軌道 長崎駅前停留場 駅名標
- 長崎電気軌道 長崎駅前停留場ホーム上の観光案内看板
ここから向かうのは江戸時代唯一の貿易拠点・出島。長崎駅前停留場には、崇福寺へと向かう1号系統と蛍茶屋へと向かう3号系統の2系統が乗り入れますが、出島へと向かうには1号系統に乗車して出島停留場で下車します。
そしてホームで待っているとちょうど1号系統・崇福寺行きの列車が入線してきたので、私はこの列車に乗車して3駅隣の出島停留場へと向かいました。
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長崎駅前停留場を出発して約6分後の19時10分頃、列車は出島停留場に到着しました。私は予定通りここで途中下車しました。
出島停留場は2面2線のホームで緩いカーブを描いていました。
- 出島停留場
- 出島停留場 駅名標
出島停留場は国道499号の上り線と下り線の間に設置されています。そして道路を挟んで向かいには江戸時代唯一の貿易拠点・出島が待ち構えていました。
出島の歴史
出島の歴史は古く江戸時代初期に遡ります。このころの日本では徳川幕府による統治が行われていましたが、徳川幕府は交易のあったヨーロッパ諸国(特にポルトガル)によって日本にもたれされたキリスト教をあまり快く思っていませんでした。
そんな中、ポルトガル船が入港する長崎では、徳川幕府の命令により長崎に住むポルトガルが住むための扇形の人工島を作ることになりました。この島は事実上のポルトガル人の収容施設で、長崎に住むポルトガル人を収容して監視下に置くことで、キリスト教の広がりを防ぐことと貿易の掌握を図ることが目的でした。1636年に完成したこの扇形の小さい島が後の出島となります。
ところがその翌年の1637年、長崎にほど近い島原半島で日本最大の農民一揆と呼ばれる島原の乱が勃発します。この島原の乱には総大将である天草四郎時貞を始め数多くの日本人キリシタンが関わったことから、徳川幕府はかつてキリスト教の布教を積極的に行っていたポルトガルとの交易を断絶し、出島にいたポルトガル人も追放しました。
これにより日本で残った海外貿易は平戸で行われていたオランダだけ(※オランダはポルトガルとは異なりキリスト教の布教に積極的でなかったため、交易を断絶されずに済みました)となり、長崎の出島は空き地になってしまいました。そこで徳川幕府は1641年にオランダとの貿易拠点を平戸から出島に移し、平戸にいたオランダ人を出島に収容しました。これにより出島は江戸時代唯一の貿易拠点となり、徳川幕府による鎖国体制が完成したのです。
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それから約250年後。開国や明治維新を経て明治時代初期、出島の周辺では長崎港の再整備に伴う埋め立て工事などが行われました。これにより出島は陸続きの土地となり、扇形をしていた出島の痕跡はほぼなくなってしまいました。
その後、第二次世界大戦後にオランダより出島復元の申し出があったことから、長崎市は復元に向けて動き始めました。そして1996年から本格的な復元工事が行われ、2016時点で16棟の建物が復元されて現在に至っています(なお出島の復元工事は引き続き行われており、2050年までに海に浮かぶ出島の再現を目指しているそうです)。
出島上陸
上述したように、2018年現在の出島は島ではなく陸続きの土地となっており、出島特有の扇形の形は壁で覆われた敷地によって再現されています。2018年現在の出島には敷地の北側中央に作られた「中央・表門メインゲート」、西端に作られた「西側・水門ゲート」、東南側に作られた「東側・明治ゲート」の3つがあります。
私は下車した出島停留場から道路を挟んで反対側にある「西側・水門ゲート」から入場しようとしました。
- 出島 西側・水門ゲート近くの石碑
しかし出島の西側・水門ゲートは夜になると閉ざされているらしく、夜の出島に入るには中央・表門メインゲートへと向かう必要がありました。そこで、出島の北側へと回り中央・表門メインゲートを目指しました。
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出島の北側には長崎湾に流れ込む中島川が流れており、出島を挟んだ反対側は川沿いの遊歩道になっていました。
- 中島川。右手が出島で左手に遊歩道が整備されている
- 中島川沿いの遊歩道。きれいにライトアップされていた
川のせせらぎ(と言っても長崎市街地なので自動車などの生活音も聞こえますが)を聞きながらライトアップされた遊歩道を歩くこと数分、出島の中央・表門メインゲートにかかる橋に到着しました。
- 表門橋。その手前の謎のモニュメントが置いてある
- 表門橋
表門橋は後で調べたところ2017年(訪問の約1年前)に作られたばかりの新しい橋でした。こちらもライトアップされていて幻想的な感じになっていました。
表門橋を渡り切ると、時代劇で見るような立派な門が待ち構えており、門の前には江戸時代を思わせる衣装を着た門番が一人立っていました(ほとんど動かなかったので、最初は人形だと思いました笑)。
- 出島 中央・表門メインゲート(出島の敷地側から撮影)
そして中央・表門メインゲートをくぐった私はいよいよ夜の出島に上陸したのでした。
夜の出島散策
表門をくぐると、石畳の細い通路が続いていました。
- 表門から続く細い通路
そして突き当りまで向かうと、そこには復元された出島の街並みが広がっていました。
- 出島 東側エリア
- 出島 西側エリア
出島の中は江戸時代を意識してか街灯はなく、建物の中から漏れる灯りだけで照らされていました。個人的にはもっと人通りがあって賑やかなのかと思いましたが、夜の出島はかなり閑散としていました(人は多少はいました)。
私はまず出島の東側を散策しました。
出島 東側エリア
出島の東側は西側と比べて建物数は多くなく、大きめでどこか洋風を感じさせる建物が多かったです。これは東側のエリアは幕末から明治期をコンセプトに建物を復元したためだそうです(なお旧出島神学校など当時から現存する建物もあるそうです)。
まず見学したのは考古館と呼ばれる建物。この建物は幕末の商社の石倉を復元したもので、オランダとの交易で輸入された当時の皿などを多数展示していました。
考古館のさらに東側は一部暗闇に包まれていました。普通に怖いし観光施設としてどうなんだろうと思いながら進むと、そこには色々な植物や石碑が立ち並ぶ庭園になっていました。
そしてその東側、出島の北東側にあたるエリアには出島の1/15のミニチュア模型が展示されていました。
- 出島のミニチュア模型(西側)
- 出島のミニチュア模型(表門付近)
- 出島のミニチュア模型(東側)
- 出島のミニチュア模型(西側)
- 出島のミニチュア模型の説明看板
こちらは「ミニ出島」と呼ばれる出島のミニチュア模型。江戸時代の出島の様子が再現されており、なかなか見ていて楽しい模型でした。
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そしてミニ出島の南側、出島の南東側には不気味に照らされた白い建物が建っていました。
- 旧出島神学校
こちらは旧出島神学校と呼ばれる建物。明治時代の1878年に建てられた日本最古のプロテスタント神学校で、半解体や修復復元は行われているものの当時から残る建物の一つです。ライトの照らされ加減のせいかとても不気味な感じがしました。
出島 西側エリア
一方、出島の西側は江戸時代をイメージした建物が復元されていました。
いずれの建物も資料館のような形になっており、私が訪れた建物には以下のような建物がありました。
・出島の作り方や構造・遺構などを紹介している建物
・出島の交易の歴史を紹介している建物
・オランダから入ってきた蘭学を紹介する建物
・西洋から入ってきた機械(エレキテルや顕微鏡、時計など)を展示する建物
展示物の写真もある程度は撮っているのですが、屋内は少し薄暗く写真写りが悪かったのと、あまり展示物を載せるのは良くないかなと思うのと、単に面倒くさい(笑)ので詳細は省略します。
しかしどの建物の展示物も見応えはあり、どれも興味深い内容でした。
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こうして約50分に渡り夜の出島を散策した私は、出島を後にしました。
本場の長崎ちゃんぽんへ@思案橋ラーメン
夜の長崎散策
出島を出た私は中島川沿いの遊歩道や道路を歩きました。
- 出嶋橋。日本最古の現役の鉄製道路橋
時刻は20時頃。まだ夕飯を食べていなかった私は、ここから徒歩で思案橋ラーメンという店を目指しました。
思案橋ラーメンは長崎市街地の南東にあるラーメン店で、周辺には長崎一の繁華街と言われる浜町アーケードがあります。
その目的は本場・長崎の長崎ちゃんぽんを食べることですが、この店にしたのは長崎が生んだ大スター・福山雅治が足繁く通っていたラーメン店だからです。
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出島を後にした私は、西浜町停留場に到着していました。
- 西浜町停留場近くの橋から見る長崎市街地
- 西浜町停留場
西浜町停留場のすぐ北側の交差点は国道202号と交わる交差点になっており、線路が2方向に分岐していました。
- 西浜町停留場近くを走る路面電車
- 西浜町停留場近くを走る路面電車
- 西浜町停留場近くを走る路面電車
この交差点から国道202号に入り東へと向かいます。
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国道202号の歩道はちょっとしたアーケードになっていましたが、20時を回っているせいか閑散としていました。また道路の真ん中には長崎電気軌道の線路もあり、途中で観光通停留場を通過しました。
- 国道202号のアーケード
- 観光通停留場
そして観光通留場を過ぎてしばらくすると、目的の思案橋ラーメンに到着しました。
思案橋ラーメン
こちらが福山雅治が足繁く通ったという思案橋ラーメン↓
- 思案橋ラーメン
- 思案橋ラーメン
- 思案橋ラーメン
思案橋ラーメンの店内はごく一般的なラーメン店と同じような感じでしたが、店内には数多くの有名人の色紙や常連だった福山雅治が載っている新聞が掲載されていました。
- 思案橋ラーメン店内の色紙
- 思案橋ラーメン店内の新聞
ここの名物は「バクダンちゃんぽん」という大盛のちゃんぽんだそうですが、そんなに食べられる気がしなかったので、普通サイズのちゃんぽんにしました。
- 思案橋ラーメンのちゃんぽん (800円)
12月の夜の寒空の中を歩いてきたので、ちゃんぽんの暖かさが身に沁みました(味も美味しかったです)。
帰宅の途へ
思案橋ラーメンを後にした私は国道202号をさらに東へと進み、思案橋停留場へと向かいました。
- 思案橋停留場
- 思案橋停留場の駅名標
- 思案橋停留場付近の様子
- 思案橋停留場に近づく崇福寺ふきの列車(中望遠で撮影)
思案橋停留場は1号系統の終点・崇福寺の一つ手前の停留場で、長崎駅前を経由する1号系統の他にめがね橋を経由して蛍茶屋へと向かう4号系統も走っています。
20時30分頃、思案橋停留場に1号系統の赤迫行きの列車が入線しました。
- 思案橋停留場に入線した赤迫行き列車
私はこの列車に乗車して長崎駅前停留場に戻ってきました。
夜9時前の長崎駅前は夜7時ごろに比べると閑散としていました。
- 長崎駅前停留場
- JR長崎駅
そして私は今は亡きJR長崎駅の4代目駅舎を遠目に見ながら今日の宿へと向かいました。
以上で4日目の行程が全て終わりました。
4日目は松浦鉄道から始まり平戸ミニ観光、JR大村線を経て日本屈指の観光地・長崎へとやって来ました。
翌5日目は丸1日かけて長崎市内を観光しました。前半は長崎の負の歴史である原爆にスポットを当て、朝から昼過ぎまで長崎に残る原爆関連の遺跡を巡りました。午後からは打って変わって眼鏡橋やグラバー園などの定番の観光名所を巡り、夜には極寒の稲佐山展望台へと向かいますが、続きは次回の記事に書きたいと思います。
続きは「長崎の原爆遺跡を巡る①―2018年 九州北部一周の旅・Part23」へ
「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら
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