弥生時代へ!佐賀・吉野ヶ里遺跡を歩く〈前編〉―2018年 九州北部一周の旅・Part12

3日目・前編1(2018年12月17日)
~弥生時代へ!佐賀・吉野ヶ里遺跡を歩く〈前編〉~

(「水の都・柳川ミニ散策―2018年 九州北部一周の旅・Part11」の続き)

旅行3日目の行程:10:00 吉野ヶ里遺跡(いまここ!) → 14:40 JR長崎本線・佐世保線 → 16:20 佐世保駅・佐世保港 → 18:00 ハウステンボス → 21:30 佐世保駅(泊)

吉野ヶ里公園駅

宿泊した吉野ヶ里公園駅に最も近いホテルから歩くこと徒歩約7分、私は吉野ヶ里公園駅の南口にやってきました。

時刻は午前9時40分頃。吉野ヶ里公園駅はその名の通り日本最大級の遺跡の一つである「吉野ヶ里遺跡」(吉野ヶ里歴史公園内)の最寄駅です。この日はここ吉野ヶ里公園駅から吉野ヶ里遺跡へと向かいます。

———

さて吉野ヶ里公園駅から吉野ヶ里歴史公園に向かうにはまず駅の北口へと向かう必要があります。南口駅舎の階段を上って駅舎内の跨線橋を渡り北口へと向かいます。

吉野ヶ里公園駅の北口駅舎は南口駅舎以上に斬新なデザインの駅舎でした。北口側の駅前は北口広場として整備されていました。

しかし北口広場の周辺はどこまでも続く田園風景が広がっていました。奥にはうっすらと山々も見えており、観光地には似つかわしくないのどかな風景が広がっていました。

さて吉野ヶ里公園駅は吉野ヶ里歴史公園(吉野ヶ里遺跡)の最寄り駅ではありますが、駅の北口広場から公園のメインゲートまで徒歩15分かかります。

そこで吉野ヶ里公園駅の北口から出ているバスに乗車して吉野ケ里歴史公園の入り口まで向かいます(※)。

(※) ちなみにこのバスは一般の路線バスではなく、吉野ヶ里町、西鉄バスなどが共同で運航している吉野ヶ里町コミュニティバスで、本数は1日5本(観光に使えるのは1日4本)しかありません(2020年5月時点)。またこのバスは平日のみの運転で土休日は運休(2020年5月時点)になっていますので、土日や3連休、お盆休みや年末年始に公共交通機関で訪れる際は十分にご注意ください(詳細は吉野ヶ里歴史公園 公式HPを参照してください)。

———

吉野ヶ里公園駅北口バス停に数分遅れてやってきた9:49発のバスはコミュニティバスらしくマイクロバスで、車内には地元の方と思しき方が数名乗っているだけでした。そして定刻より数分遅れで出発したバスは田園風景の中を西へと走りました。

吉野ヶ里歴史公園

吉野ケ里歴史公園 正門

バスに乗車して約3分、私は次の停留場である吉野ヶ里歴史公園前バス停で下車しました。

バスを降りると目の前には田園風景が広がっていました。

これを見て一瞬「えっ・・・」と思いましたが、道路を挟んだ反対側に日本最大級の遺跡である吉野ヶ里歴史公園の入り口(正門)がありました。

そして道路を渡ると遂に吉野ヶ里歴史公園の正門が目の前までやってきました。

ここからいよいよ中に入りますが、その前に吉野ヶ里歴史公園と吉野ヶ里遺跡の概要を簡単に紹介したいと思います。

吉野ヶ里歴史公園とは

吉野ヶ里歴史公園は、国の特別史跡で日本最大級の遺跡である「吉野ヶ里遺跡」を中核とした国営公園とその周辺に整備された佐賀県営公園、この2つの公園を有する歴史公園として2001年に開業しました。敷地面積は117ヘクタール(東京ドーム25個分!)にもおよび、そのうち104ヘクタールが公園として開園されています(2017年時点)。

吉野ヶ里歴史公園は「弥生の声を感じる」を基本テーマに大きく4つのゾーンから構成されています。吉野ヶ里遺跡の中心で弥生時代の環濠集落の再現や発掘物の展示などを行っている「環濠集落ゾーン」を中核に、売店・レストランや映像シアターがある”歴史公園センター”を有する「入り口ゾーン」(公園東側)、6ヘクタールに及ぶ芝生広場や巨大遊具などのレクリエーション施設を有する「古代の原ゾーン」(公園西側)、弥生時代の森を再現した”古代植物の森”や植物の展示・体験を行う”古代の森体験館”などを有する「古代の森ゾーン」(公園北側)から構成されています。

このように非常に広大かつ多彩な施設を有している吉野ヶ里歴史公園。ここからはその中核である吉野ヶ里遺跡について簡単に紹介します。

吉野ヶ里遺跡とは

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と佐賀県神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、日本最大級の遺跡として知られています。約700年(紀元前5世紀~紀元後3世紀)続いた弥生時代の全ての時期(前期・中期・後期)の遺構・遺物が発見されたことから学術的価値が高く、国の特別史跡にも指定されています。

弥生時代は、稲作が日本国内に広まったことと稲作に人手が必要だったことから「ムラ」と呼ばれる小さな集落が形成されました。やがてムラ同士の争いの中でムラが徐々に統一されると、それを治める「クニ」が各地に形成されました。

吉野ヶ里遺跡にはそんな弥生時代後期のクニの中心集落が存在したとされており、40ヘクタール(東京ドーム8.5個分)以上の敷地を誇る大規模な環壕集落(周囲に環状の空堀を掘った集落)だったとされています。その巨大な規模や建物跡から推察される建物の造りなどが、歴史の教科書にも出てくる弥生時代の女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国のイメージに合致していたことから、一時期は邪馬台国が吉野ヶ里遺跡にあったのではないかという説も出ていたほどです。
(ちなみに吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという確たる証拠はなく、2020年時点では関連性は不明とされています(吉野ヶ里歴史公園の公式HPのQ&Aより))

また吉野ヶ里遺跡には弥生時代初期の「ムラ」の跡地や、弥生時代中期の大きめの「ムラ」の跡地が存在しており、弥生時代700年の歴史の中で「ムラ」から「クニ」へと発展していく過程を一つの遺跡で見ることができます。

吉野ヶ里歴史公園 入り口ゾーン(歴史公園センター)

ここから旅行記に戻ります:

上述したように吉野ヶ里歴史公園は、弥生時代後期のクニの環壕集落を再現した「環壕集落ゾーン」を中核に、歴史公園センターの立つ「入り口ゾーン」、広大な芝生や遊具などが建ち並ぶ「古代の原ゾーン」、”古代植物の森”などを有する「古代の森ゾーン」から構成されています。

しかし今回の旅行で割り当てた滞在期間は約半日。その間にこのように非常に広大で多彩な施設を有している公園を全て巡る(しかも徒歩で笑)のは体力的にも時間的にもムリと判断しました。そこで今回の旅行では、正門や歴史公園センターがある「入り口ゾーン」、そして吉野ヶ里歴史公園の中核である「環壕集落ゾーン」の2つを巡ることにしました。

※今回は2018年当時のパンフレットに記載されていた見学ルートのうち、「環壕集落ゾーン」東側を南北に走る「ひみかのみち」を北上し、西側を南北に走る「やよいのみち」を南下するルートで徒歩散策しました。なお公園内には園内バスも運転(1時間に3本)されており、環壕集落ゾーンの入り口や北側の施設、公園西口や北口、古代の森体験館などを結んでいます(2020年当時)。

———

吉野ヶ里公園駅からコミュニティバスに乗車し、吉野ヶ里歴史公園の正門前にやってきた私(写真再掲)。

いよいよ正門をくぐり吉野ヶ里歴史公園の敷地に入ります:

正門をくぐると左右には水の流れるお堀(環濠)がありました(おそらくこちらは遺跡ではないと思います)

そして正面には奥へと一直線に伸びる並木道が奥へと続いていました。

並木道の左手には大きな駐車場が広がっていましたが、平日・月曜日の午前中ということもありがら空きでした。そして園内も人はほとんどいませんでした。

並木道を歩くこと約2分、目の前が開け湾曲した屋根が特徴的な建物(歴史公園センター)が見えてきました。

その屋根の真下まで行くと、吉野ヶ里歴史公園のマスコットである「ひみか」くんがお出迎えしてくれました。

歴史公園センターは左右に細長く伸びているガラス張りの建物で、チケット売り場や売店・レストラン、映像シアターなどを併設しています。

レストランや映像シアターは後で時間が余れば訪れることにし、まずはチケット売り場でチケットを購入します(チケットが必要なのは上の写真の奥からで、入り口ゾーンや歴史公園センターは無料のようです)。

次に環壕集落ゾーンに向かう前に、歴史公園センター内にある展示施設「ようこそ弥生の『クニ』へ」を見学しました。ここで吉野ヶ里遺跡について簡単に学びます。

そして歴史公園センターの奥にある歴史公園の入場口をくぐると、いよいよ弥生時代の雰囲気が再現された環壕集落ゾーンに入ります。

吉野ヶ里歴史公園 環壕集落ゾーン〈前編〉

天の浮橋

入場口をくぐると目の前には真っすぐ奥へと延びる大きな橋になっていました。

この橋は吉野ヶ里歴史公園の入り口ゾーンと環濠集落ゾーンの間を流れる田手川にかかる橋で、「天の浮橋」というロマンティックな名前が付いています。

橋からは殺風景な河川敷の間を流れる田手川や川を泳ぐカモ(?)の群れ、遠くに見える北内郭(集落で最も神聖な場所)の祭殿が見えていました。

ひみかのみち(環壕入口広場~南内郭・展示室)

天の浮橋を渡り切ると、「環壕入口広場」と名付けられた広場になっており簡易的な案内所が設置されています。

そこを少し進むと、環壕集落の入り口と思しき門が見えてきました。

門の上には見慣れない飾りがありました。後で調べたところ、これは鳥の飾りで、弥生時代の穀霊(穀物の霊)信仰において、鳥は穀霊を運ぶ生物として崇拝されていたことに由来して飾られたものだそうです。

門の周囲には外壕や柵列、逆茂木(乱杭)が設置されていました。

これらはいずれも外部の敵からの侵入を防ぐためのものだったと考えられており、弥生時代の「ムラ」や「クニ」同士の争いの中から生まれた環壕集落の性格を表しています。

そんな厳重な門をくぐると、中は舗装された通路と木々が続いていました。

中にはこんな可愛らしいものも↓

こうした光景に少し癒されながら門から道なりに歩くこと約170m、最初の遺跡エリアである南内郭と、その横に立つ展示室が見えてきました。

展示室(吉野ヶ里遺跡展示室)

まずは勉強のため展示室に入りました。

こちらの展示室は正式名称「吉野ヶ里遺跡展示室」といい、その名の通り吉野ヶ里遺跡で発掘された貴重な資料を展示している建物です。

展示室内の写真は省略しますが、大小さまざまな土器が展示されていたり、石器や銅剣、勾玉などが展示されていたりと、歴史の教科書で出てくるような弥生時代を中心とした道具類などが展示されていました。

南内郭 櫓門

展示室の目の前には巨大な櫓のようなものがありました。

こちらは櫓門といい、南内郭の正門にあたる門だったそうです。この正門は監視を厳重にするために櫓状の門(櫓門)になっており、兵士たちが上から監視していたそうです。

公園に再現されている櫓門も上に登れるようになっていたので登ってみました。

櫓門の上からはこれから訪れる南内郭エリアを一望でき、奥には山々も見えています。

南内郭

櫓門を降りたらいよいよ南内郭の内側に入ります。

南内郭エリアは吉野ヶ里の環濠集落が「クニ」として最盛期だった弥生時代後半に、王やリーダー層の人々がクニの政治を執り行っていたとされる非常に重要な場所で、集会場や王やリーダー層の人々の住居が存在していたと考えられています。

復元された南内郭エリアは、広大な空き地を囲む形で復元された竪穴式住居や物見櫓が配置されており、後で訪れる北内郭エリアと比べてもかなり殺風景な感じでした。

———

まずは南内郭エリアの南西側にある物見櫓に登ってみました。

物見櫓は上から周りを見張るための櫓で、南内郭エリアだけでも計4カ所設置されていました。

こちらの南内郭エリアの南西側の物見櫓の東側からは南内郭エリアを一望できます。

物見櫓の北側からは遠くに山々が見えており、非常に気持ちが良かったです。

そして西側からは「倉と市エリア」に立つ高床式倉庫などの建物や、南西側に目を向けるとどこまでも広がる吉野ヶ里遺跡の広大な敷地が広がっていました。

———

こちらは今の櫓のふもとに立つ「『大人』の妻の家」と名付けられた竪穴式住居。

ここでいう「大人」は王の側で仕えていたリーダー層の人たちのことを指しており、ここはそんなリーダー層の家族が住んでいる家だったようです。

中に入れるようだったので中に入ってみました。

竪穴式住居は弥生時代やその前の縄文時代を代表する建築物で、中に入るのは小学生の時以来10数年ぶりということもあり、少し童心に帰った気分で中に入りました。

間口は幅は狭く高さも低いですが、中に入るとそこそこの広さで、高さもかなりありました。中では女性の人形が髪を梳いている様子が再現されていました。

———

こちらは「『大人』の妻の家」の隣に建つ「『大人』の家」。

リーダー層である「大人」が住んでいた家で、竪穴式住居の中では3体の男の人形が何らかの作業をしていました。

———

そしてこちらは南内郭エリアの北側に建つ「『王』の家」。

こちらは「クニ」のトップである「王」が住んでいた家で、江戸時代で言えば各藩の殿様が住むお城にあたる場所です。しかし「王」と言えど当時住んでいたのは竪穴式住居だったようで、そこは他の家とあまり大差ないなと感じました。

ただ中の様子は「大人」よりも少し豪華で、わらで作られたと思われる座敷のようなものの上に「王」の人形が座っており、左手には寝床やそれを仕切る仕切り板が置いてあったりしました。

———

南内郭エリアには、紹介しなかった竪穴式住居や集会の館なども合わせると20棟の建物復元されているそうです。またエリアの一角では弥生時代に作られていた物品が展示されていたりしました。

私はそんなかつての「クニ」の中心エリアであった南内郭を後にして見学ルート「ひみかのみち」を北上しました。

 


吉野ヶ里遺跡散策の途中ですが、今回の記事はここまでとなります。

この後は集落の中で最も神聖だったとされる「北内郭」や、歴代の「王」などが眠るとされる「北墳丘墓」などを訪れますが、続きは次回の記事で書きたいと思います。

続きは「弥生時代へ!佐賀・吉野ヶ里遺跡を歩く〈中編〉―2018年 九州北部一周の旅・Part13」へ

「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら

 

コメント