2日目・前編3(2018年12月16日)
~世界遺産のまち・大牟田へ③―三池炭鉱 三川坑へ―~
(「世界遺産のまち・大牟田へ②~【世界遺産】三池炭鉱 宮原坑へ~―2018年 九州北部一周の旅・Part8」の続き)
三池炭鉱 三川坑
世界遺産・三池炭鉱 宮原坑を後にした私たちは、大牟田市内を横断して海側へと向かいました。
F氏の運転で走ること約15分、私たちは三池炭鉱の三川坑にほど近い駐車場へとやってきました。車を止めた私たちはここから三川坑へと向かいました。
旧三井港倶楽部
車を降りて三川坑へと向かう私たちの目の前に洋風のおしゃれな建物が見えてきました。
- 旧三井港倶楽部(建物前で撮影)
こちらの建物は旧三井港倶楽部といい、市指定の有形文化財として登録されています。1908年竣工の100年以上の歴史を誇る洋館で、かつては三池港で働く船員の休憩所や政財界の社交場(迎賓館)として使われていました。この建物は現在も現役で、レストランや結婚式場として用いられています。
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このおしゃれな洋館の玄関前へと向かう道中には、色々な記念碑や銅像が置かれていました。
- 三池港開港100周年記念のプレート
- 三池炭鉱 大浦坑跡の石碑
- “三池炭鉱育ての親”である團琢磨の銅像
上の2枚目の写真は、江戸時代末期に開坑し、三池鉱山の官営化後に最初に近代化された坑口である大浦坑(1857~1926、1946~1956)の記念碑です。この記念碑は1926年に大浦坑が閉坑した際に、”三池炭鉱育ての親”である團琢磨(3枚目の写真の銅像)が残した石碑だそうです。大浦坑は、いまの大牟田市の一般廃棄物の最終処分場の敷地内にあり、石碑もかつてはそこにあったそうなのですが、旧三池港倶楽部前に移設され、石碑を作った團琢磨の銅像と共に保存されています。
そして上の3枚目の写真の銅像である團琢磨は、”三池炭鉱育ての親”であると共に、晩年は三井財閥の総帥を務めたほどの人物でした。その人生は波乱万丈でしたが、三池炭鉱を語る上では欠かせない人物ですので、ここで簡単に紹介したいと思います:
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團琢磨(1858~1932)は1858年、福岡藩士の子供として生まれました。團琢磨は福岡藩の藩校で学んだ後、1871年(14歳の時)に旧福岡藩の12代藩主であった黒田長知によって海外留学生として選ばれアメリカへと向かいます。このとき乗船した船は歴史の教科書にも出てくる「岩倉使節団」の船で、明治維新で活躍した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)なども乗っていました。
マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ團琢磨は1878年の帰国後、教員などを経て1884年に工部省に鉱山技師として入省します。團琢磨はここで三池炭鉱と出会い、当時問題となっていた三池炭鉱の湧水問題に対処するため再び欧米へと渡りました。
1888年、三池炭鉱が三井財閥へと払い下げられると、團琢磨は三井財閥上層部の強い意向で三井財閥へと引き抜かれました(このとき三井財閥は「三池(炭鉱)の落札価格には團(琢磨)の価値も含まれている」と主張したほどでした)。「三井三池炭鉱社」の事務長に就任した團琢磨は、欧米で学んだ排水ポンプ技術を採用して三池炭鉱の湧水問題を解決しました。また三池港の築港や三池鉱山専用鉄道の敷設といった三池炭鉱で出炭した石炭の運搬・輸出には欠かせない施設も作るなど、三池鉱山の近代化と発展に大きく貢献しました。
晩年は三井財閥の総帥(三井合名会社 理事長)や日本工業倶楽部の初代理事長、日本経済聯盟会(現在の日本経団連の前身)の理事長・会長などを務め、三井財閥のトップとして、また日本経済の旗振り役として活躍していました。しかし1930年前後に戦前最大の大不況である昭和恐慌が起こると、ドルの買い占めを行った三井財閥やその総帥であった團琢磨は国民から批判を浴びることになりました。そして政財界の要人を狙った連続テロ事件である血盟団事件で標的の一人となった團琢磨は1932年3月5日、日本橋の三井本館前で暗殺されました。
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最後は悲劇的なものでしたが、三池炭鉱の存亡に関わる湧水問題の解決や、石炭の輸出に欠かせない三池港・三池鉄道の創設などを行った團琢磨。團琢磨がいなければ三池炭鉱はここまで発展しなかったかもしれません。
※ちなみに2020年3月まで日テレ朝の情報番組「ZIP!」のリポーターだった團遥香さんは團琢磨さんの子孫だそうです(詳細は末尾の”編集後記”に記載)
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さて旧三井港倶楽部や三井炭鉱に関わる石碑・銅像が建ち並ぶ通路を抜けると、その先には狭い通路と三川坑への案内看板がありました。
ここを抜けるといよいよ三川坑が見えてきます。
かつての炭鉱電車@三川坑
狭い通路をしばらく進むと開けた場所に出てきました。そこには炭鉱電車がずらっと展示されていました。
- 三川坑跡に展示された炭鉱電車
- 三川坑跡に展示されている炭鉱電車1
- 三川坑跡に展示されている炭鉱電車2
- 三川坑跡に展示されている炭鉱電車3
- 三川坑跡に展示されている炭鉱電車4
2018年現在の三川坑では、かつて三池炭鉱専用鉄道で使われていた炭鉱電車が全部で4両展示されていました。大きさや形はどれも違うものの赤っぽい色の車体で先頭に黄色と黒色の警戒色が塗装されていました。
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そして私たちはそんな炭鉱電車を見つつ三川坑の坑道入り口へと向かいました。
三池炭鉱 三川坑
三川坑とは
三池炭鉱 三川坑は1940年に開坑した坑口で、三池港の近くから有明海の海底に向かう長さ2050mの斜坑が2本備えられていました。ベルトコンベアによる連続出炭が可能な坑口で、戦後復興期における最主力坑口でした。
1949年には昭和天皇が入坑した名誉ある坑口で、最盛期には三池炭鉱から出炭する石炭のうち約4割を出炭するほどの最主力坑口でした。一方で、1959~1960年に発生した戦後最大の労働争議である三池争議や、1963年に発生した戦後最悪の炭鉱事故である三池三川炭鉱 炭じん爆発事故(死者458人、一酸化炭素中毒者839人)の舞台にもなりました。そのため、三池炭鉱の中ではいい意味でも悪い意味でも最も有名な坑口でした。
三川坑はその後も主力坑として三池炭鉱を支え続けましたが、1997年の三池炭鉱の閉山と共に閉坑しました。
※三池三川炭鉱 炭じん爆発事故と同じ日に、国鉄戦後五大事故の一つである鶴見事故(脱線転覆した貨車に横須賀線の列車2本が追突した脱線衝突事故、死者161人)も起きていることから、事故が起きた1969年11月9日は「血塗られた土曜日」、「魔の土曜日」などと言われています。
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1997年の閉山後、三川坑にあった多くの施設が解体されてしまい、2018年現在残っているのは第二斜坑の坑口や巻揚機室などの一部の施設のみとなってしまっています。ここからはその残っている施設群を見学していきます。
三川坑 第二斜坑口
炭鉱電車が保存展示されているエリアの一番奥には、「入昇坑口」の看板が掲げられた出入り口がありました。
- 三川坑 入昇坑口
他のブログによるとこの入昇坑口は、鉱山で働く従業員が斜坑口にある人車(人を運搬するための簡易的な列車)の乗り場へと向かうための通路で、実際に使われていたものだそうです(※さすがに入り口は作り直しています)。
そこから10段くらい階段を降りると、天井の低く暗い通路になっていました。
- 三川坑 入昇坑口内部の様子
ちょっとした冒険気分で少し奥に進むと目の前は行き止まりのフェンスになっていました。
- 三川坑 入昇坑口内部の様子
そのフェンス越しには天井のさびた通路が奥へと続いており、その先は暗闇になっていました(憶測でしかありませんが、この入昇坑口の看板が「第一斜坑・第二斜坑 入昇坑口」となっていたことから、今は亡き第一斜坑へと向かう通路だったのかも知れません)。
ここで行き止まりかなとも思いましたが、左手を見ると通路がまだ続いていました。
- 第二斜坑口へと続く通路
そして少し進むと開けた空間に出ました。
- 三川坑 第二斜坑口
- 三川坑 第二斜坑の案内板
先ほどまでの狭い通路が坑道だと勝手に思い込んでいた私は、最初はこのだだっ広い空間が何なのか全く分かりませんでした(笑)。しかし案内板を見たりしているうちにここが第二斜坑の坑口であることが徐々に分かりました。
第二斜坑口は上でも書いたように三川坑に残る唯一の坑口で、天井がかなり高いこの空間はその地上部に建つ入口建屋(仮名)の内部だったようです。また上の写真の1枚目に映るアーチ状のコンクリ壁には、かつて地下へと続く斜坑の穴が空いていたようです。
そしてアーチ状のコンクリ壁の反対側は外につながっており、私たちは外に向かって歩きました。
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坂を上り切って見えてきたのは、奥へと延びる古い線路でした。
- 第二斜坑から地上に延びる線路
- 三川坑 第二斜坑の車両出入り口。右手に止まっているのは錆だらけの人車
この線路も当時は分かりませんでしたが、後で調べてみると人車や貨車が走る線路で、現役の頃は線路が第二斜坑の内部に延びていたそうです。
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ちなみに地上に出てから気づきましたが、どうやらここは先ほどの入昇坑口の右手奥にある場所で、すぐ近くにその入昇坑口がありました。何だか施設側の策略に乗って遠回りさせられた気分にもなりましたが、鉱員たちが通る正規の通路だったし、少し冒険気分を味わえたしまあいいかと思いました笑。
- 三川坑跡の案内板
三川坑 第二斜坑の施設たち
第二斜坑口を出た私たちは、線路伝いに奥へと向かいました。
まず見えてきたのはこちら ↓ の古い建物。
- 三川坑 繰込場
- 三川坑 繰込場の案内板
この建物は「繰込場(くりこみば)」といい、作業員が入坑前に待機している場所だったそうです。
そこからさらに奥に向かうと、錆だらけの人車が置いてあったり、先ほどの繰込場の側壁が半壊していたりしていました。
- 錆だらけの人車
- 崩壊しかかっている繰込場の側壁
- 敷地内の背の低い通路
- 敷地内の背の低い通路内部の様子
- 奥へと続く線路
さらに敷地の奥に進むと昔使われていたであろうタンクが置かれており、その奥に比較的しっかりした建物が見えてきました。
- 三川坑敷地内のタンク
- 三川坑 第一巻揚機室
この建物は第一巻揚機室で、上述した三川炭鉱 炭じん爆発事故の後に再建された比較的新しい(といっても築50年以上ですが)建物です。
巻揚機室と言えば、午前中に訪れた世界遺産・宮原坑にもあった施設ですが、三川坑ではおそらく斜坑を昇り降りする人車や貨車を上げ下げするために用いられていたものと思われます(案内板には説明がなかったので憶測ですが)。
中に入ると、宮原坑で見た巻揚機と同じくらいの大きさの巻揚機が鎮座していました。
- 三川坑 第一巻揚機
- 三川坑 第一巻揚機を動かすための機械と思われる
またその傍らには巻揚機を動かすための操縦室がボロボロの状態で置かれていました。
- 三川坑 第一巻揚機室の操縦室
階段は登れそうだったので登ってみると、当時の操縦桿などがそのままの状態で置かれており、操縦室からは巻揚機を見下ろすことができます。
- 三川坑 第一巻揚機室の操縦室内部の様子
- 三川坑 第一巻揚機室の操縦室からの眺め
- 壁に掲げられた看板
第一巻揚機室は建物や巻揚機本体はしっかりとした状態でしたが、それ以外の部分は廃墟感満載でした ↓ 。
- 三川坑 第一巻揚機室のロッカー
- 三川坑 第一巻揚機室の事務所(?)
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第一巻揚機室を出た私たちは最後に第二巻揚機室を訪れました。
- 三川坑に残された遺構。おそらくベルトコンベアの跡か?
- 三川坑 第二巻揚機室 入り口
第二巻揚機室の内部にも巻揚機や操縦室が残されていました。しかし建物の天井が崩壊しており、奥に入れないように規制線が張られていました。
- 第二巻揚機室 内部の様子
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以上で三川坑の施設を概ね見学した私たちは炭鉱電車が展示保存されているエリアに戻りました。
- 三川坑内にある日本庭園
三川坑は宮原坑とは異なり全体的に劣化が進んでいる印象でしたが、それはそれで味があって良い感じがしました。また巨大な第二斜坑口や巻揚機を目にすることができ、かつての三池炭鉱の様子は少しばかり知ることができたと思います。
そして駐車場へと戻った私たちは次の目的地である世界遺産・三池港を目指しました。
2日目の途中ですが、今回の記事はここまでとなります。
この後は、世界遺産である三池港、そして三池炭鉱の歴史を学べる石炭産業科学館を訪れますが、続きは次回の記事に書きたいと思います。
続きは「世界遺産のまち・大牟田へ④~三池港と石炭産業科学館~―2018年 九州北部一周の旅・Part10」へ
「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら
編集後記:
本記事の公開後、博多や大牟田を案内してくれた大学時代の友人・F氏より、日テレ朝の情報番組「ZIP!」の元女性リポーター・團遥香さんが、”三池炭鉱育ての親”・團琢磨の子孫でとても美人だよ!、という情報提供を頂きました。私は「ZIP!」をあまり見たことがなく知らなかったので調べてみました:
團遥香さんは團琢磨の玄孫(逆に言えば、團琢磨は團遥香の高祖父(“ひいひいおじいさん”))にあたる方で、2013年から7年間に渡って「ZIP!」のリポーターを務めた女性タレント(2020年3月に「ZIP!」を卒業したばかり)です。
ウィキペディアに載っている彼女の記事を見てみると、直系の先祖は高祖父・團琢磨までみんな著名人だわ、歴史上の人物でもないのに家系図が載っているわ、縁戚関係のある著名人が70人以上載っているわ、とにかく凄かったです笑。縁戚関係のある著名人は、鳩山由紀夫(家系図に記載)、田中角栄、安倍晋三、中曽根康弘、麻生太郎、吉田茂、昭和天皇、大隈重信、渋沢栄一、・・・・・・、とにかく言葉が出ないです。
またあるインタビュー記事ではこんなエピソードを語っていました(ざっと要約して紹介します):
・祖父がラジオ体操第二や童謡「ぞうさん」などを作曲した作曲家の團伊玖磨なのですが、その祖父の写真が学校の音楽室の壁に飾ってあったそうです。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、おじいちゃん、みたいな並びで笑。音楽の授業では常に祖父に見られている感じがして恥ずかしかったそうです。
・また高祖父・團琢磨は上で書いたように1932年の血盟団事件で暗殺されていますが、血盟団事件は歴史の教科書に載る事件だったため、その内容を扱う授業がある日、学校を休んでしまったそうです。
・・・と少し可愛いらしい学生の頃のエピソードを語っていました。
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以上、”三池炭鉱育ての親”・團琢磨の玄孫である團遥香さんを紹介しました。
(いつか團琢磨が育てた三池炭鉱を見に行くこともあるのでしょうか・・・)
(追伸)F氏へ:情報提供ありがとうございました!
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