2日目・前編1(2018年12月16日)
~世界遺産のまち・大牟田へ①―市街地と三井化学・大牟田工場―~
(「夜の博多・天神散策〈後編〉~博多グルメと夜景を訪ねて~―2018年 九州北部一周の旅・Part6」の続き)
世界遺産のまち・大牟田へ
新栄町駅
朝10時前、ホテルを出た私は最寄り駅の新栄町駅を目指して歩いていました。
- 新栄町駅南側の踏切(大牟田方面)。右側2線が西鉄の線路、左側2線がJR鹿児島本線の線路
- 新栄町駅南側の踏切。奥に見えるのは新栄町駅
この日はあいにくの雨模様となりました。かつては大牟田の中心街と言われた新栄町駅周辺は雨も相まって、朝になっても寂しく感じました(もしかつての中心街だと当時知っていたら、もうちょっと駅前を散策してさびれ具合を見てみたかったですね…)。
- 新栄町駅南側の様子。ここに映る駐車場にはかつて商業施設が建っていた
- 新栄町駅前のロータリー
- 新栄町駅 駅舎
駅舎の中に入りホームへと向かうと、ちょうど西鉄と並行して走るJR鹿児島本線の列車が通過していきました(下の写真の3枚目)。
- 新栄町駅の改札
- 新栄町駅の発車案内板
- 新栄町駅の脇を通過するJR鹿児島本線の列車
- 新栄町駅ホーム
- 新栄町駅 駅名標
そして10時01分発の特急・大牟田行きに乗車した私は、一駅隣の終点・大牟田駅へと向かいました。
- 入線する特急・大牟田行き列車
大牟田駅
乗車してから約3分、列車は西鉄・天神大牟田線の終着駅である大牟田駅に到着しました。
- 大牟田駅 8番線ホーム(降車専用ホーム)
- 大牟田駅 駅名標
- 世界遺産のまち・大牟田の貼り紙
西鉄・大牟田駅は、3面3線・計5つの乗り場(4番線~8番線)からなる駅で、改札は線路の終端を表す車止めの先にありました。
- 7・8番線に停車する西鉄電車。手前の植え込みには可愛らしいふくろう(置物)がいました
- 大牟田駅構内の様子。手前に見えるのは西鉄・大牟田駅の4・5番線ホーム、奥に見えるのはJR大牟田駅のホーム
- 西鉄・大牟田駅の改札(駅構内側)
乗り場が多い割にはホームが狭いせいか窮屈に感じる西鉄・大牟田駅の改札を出ると、左手にはJR大牟田駅の西口改札が設置されていました。
- 西鉄・大牟田駅 改札
- 西鉄・大牟田駅の改札(左側)とJR大牟田駅の西口改札(右側)
西鉄・大牟田駅の改札がある大牟田駅の西口駅舎を出ると、駅前はロータリーになっており、そこそこの人出がありました。
- 大牟田駅 西口広場
- 大牟田駅 西口広場に置かれた炭鉱施設の櫓の模型
- 大牟田駅 西口ロータリー
- 大牟田駅 西口ロータリー
大牟田駅の西口駅舎の右隣には大牟田駅の西口と東口を結ぶ連絡橋がありました。
- 大牟田駅 西口駅舎(左側)と大牟田駅連絡橋(右側)
- 大牟田駅 西口駅舎
- 大牟田駅連絡橋
これを渡って東口駅側へ出ると、東口側は西口側よりも大きなロータリーとなっており、高めの建物もちらほらですが見られました。
- 大牟田駅連絡橋内に掲げられた横断幕
- 大牟田駅連絡橋の内部
- 大牟田駅 東口ロータリー
- 大牟田駅 東口駅舎
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この日は、前夜に引き続き大学時代の友人・F氏と共に、F氏が暮らす”炭鉱と世界遺産のまち”大牟田を巡ることになっていました。
F氏とは午前10時35分に大牟田駅の西口側で落ち合うことになっていたので、再び連絡橋を渡り大牟田駅の西口側に戻った私は、駅のコンビニで買ったおにぎりをほおばりながらF氏が来るのを待ちました。そして午前10時45分頃、F氏から大牟田駅前に着いたという連絡を受けた私は、駅舎の外に出てロータリーへと向かいました。
大牟田散策~車で巡る大牟田市街地と三井化学・大牟田工場~
大牟田駅の駅舎を出て西口ロータリーに向かうと、そこにはF氏の運転する日産の車が停車していました。
中古で買ったというF氏の車に乗り込んだ私は、F氏の運転で小雨降る大牟田のまちをドライブしました。
大牟田市と三池炭鉱
F氏が2019年現在住んでいる”炭鉱と世界遺産のまち”・大牟田。ここで大牟田の概要と歴史についてざっと振り返ってみたいと思います:
大牟田市は福岡県の最南端に位置する市町村で、西側は有明海、南側は熊本県の荒尾市と隣接しています。かつては「三池炭鉱」という日本屈指の炭鉱で栄えた”炭鉱のまち”でしたが、現在は今は亡き三池炭鉱の関連施設が世界遺産に登録されたことで”世界遺産のまち”にもなりました。
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その歴史は古く、奈良時代に編纂された歴史書である『日本書紀』にも出てきます。それによると、4世紀初め頃に熊襲(ざっと言えば九州にいた反政府勢力)の討伐に向かった第12代天皇・景行天皇が高田行宮(現在の大牟田市歴木)に滞在した際、長さ970丈(約2.9km)の巨大なクヌギの倒木を見て、このクヌギは”神の木”であると考えこの地を「御木国(みきのくに)」と名付けたのが始まりとされています(これが後の”三池”の語源になったとも言われています)。
※景行天皇が滞在したとされる高田行宮の跡地には石碑が建てられているそうです(大牟田市歴木にある高田公園内)。
※実際の”三池”の名前の由来としては、12世紀末の地震でこの地に3つの池が出来たことから「三池」と呼ばれるようになったという説が有力です。また”三池”の名前にまつわる伝説には、福岡県の民話「ツガニの恩返し」(「大蛇山伝説」、「大蛇とツガニ伝説」とも言う)もあります。昔ある女性に可愛がってもらっていたツガニが、大蛇の生贄になったその女性を救うために大蛇と戦って、大蛇をハサミで3つに切り、その血が3つの池になったという伝説で、そこから”三池”と呼ばれるようになったとするものです。
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さて室町時代に入り応仁の乱(1467~1478)で京都が戦場になっていた頃、この三池の地では1469年に農民・伝治左衛門によって燃える石が発見されました(かつての稲荷村、現在の三井化学・大牟田工場の東側周辺)。
これが後の石炭で、やがて江戸時代に入ると、柳川藩と三池藩の手によって三池の地で石炭の採掘が行われるようになりました。
明治時代に入り官営化(今で言う国営化)された三池炭鉱は、西洋の技術が取り入れられたことで急速な近代化を遂げることになりました。そして1889年に三井財閥に払い下げられると、次々と新たな採掘抗が開坑していきました。こうして三池炭鉱は、日本一の出炭量を誇る日本屈指の炭鉱として、明治時代以降の日本の発展に大きく貢献しました。
大牟田市はそんな三池炭鉱と石炭化学コンビナートの発展と共に”炭鉱のまち”として栄えていきました。
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戦後に入ると、エネルギーの中心は石炭から石油に移行し、炭鉱業衰退していきました。三池炭鉱も例外ではなく、石炭時代の終焉に伴い1997年に閉山となりました。しかし2015年7月、三池炭鉱の炭鉱関連施設が「明治日本の産業革命遺産」として他の7都市にある施設(八幡製鐵所、韮山反射炉、長崎造船所など)と共に世界遺産に登録されました。こうして大牟田市はかつての”炭鉱のまち”から”世界遺産のまち”となったのです。
大牟田市街地
さて旅行記の方に話を戻します:
F氏の運転する車で大牟田駅の西口ロータリーを出た私たちは、大牟田市内をドライブしました。
正直言うと、どこをどうドライブしていたのかあまり覚えていませんが(笑)、印象に残っているのは、
・駅近くの通りが通行量の割りにやけに広かった
・F氏が会社の先輩とよく行くスナック
・古めかしい商店街のアーケード
・廃線跡と思われるさびれたガード(下の写真↓)
・国道沿いにある「ゆめタウン大牟田」というしゃれた名前のショッピングセンター
といった感じです。
- 三池炭鉱がらみの貨物線の廃線跡と思われるガード下
そして車は大牟田市を代表する企業である三井化学・大牟田工場へとやってきました。
三井化学・大牟田工場
三井化学・大牟田工場は、1912年創業の100年以上の歴史を誇る大規模な工場で、かつては三井財閥の傘下だった三池鉱山から出る石炭を加工する石炭化学事業を展開する工場として、三池炭鉱と共に大牟田市の発展と日本の産業の発展に大きく貢献してきました。そして2020年現在、ファインケミカル製品を生産する中核工場として、大牟田市を代表する工場になっています。
※ちなみに上でも書きましたが、いま三井化学・大牟田工場が建っている辺り(工場東側の周辺)で三池最初の石炭が発見されたそうです。
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2020年現在はファインケミカル製品として、車のシートや低反発枕に用いられるウレタンや、今のメガネには欠かせないプラスチックレンズなどを生産している三井化学・大牟田工場。私たちの乗る車はそんな大牟田工場の北側の道路を走った後に、工場の東側を南北に貫く道路を南へと走り抜けました。
特に工場の東側の道路からは、工場内部に立つ巨大な建造物の数々が見え、とてつもなく大きい工場だなと感じました(下の写真は道路を横切る工場のパイプ)。
- 道路を横切る三井化学・大牟田工場のパイプ
宮浦石炭記念公園
三井化学・大牟田工場の東側の道路を南へと走り抜けた車は、その大牟田工場を一望できる公園があるということでそちらに向かいました。
午前11時過ぎ、紅葉色づく街路樹が建ち並ぶ小さな通りを進むと、その公園が見えてきました。
- 宮浦石炭記念公園 入り口
- 宮浦石炭記念公園前の道路
公園の名前は「宮浦石炭記念公園」。三池炭鉱を偲んで作られた小さな公園かなと訪問当時思っていましたが、調べてみるとこの公園は三池炭鉱の主力坑口の一つであった宮浦坑(1887年開坑、1968閉坑)の跡地でした。
「宮浦石炭記念公園」は誰もいないとても静かで小さな公園で、降りしきる雨もあって寂しげな感じがしました。
公園の中には、在りし日の三池炭鉱で使われていた機械や、
- 宮浦石炭記念公園に置かれたサイドダンプローダー(掘削時の土や岩を積み込む機械)
- 宮浦石炭記念公園に置かれたサイドダンプローダーと運搬用の貨車
- 宮浦石炭記念公園に置かれた物資運搬列車
地下へと人を送り届けていた人車などが保存されていました。
- 宮浦石炭記念公園に置かれた人車
人車は側壁のない簡素な作りで、少し窮屈そうな感じがしました。こんな人車に乗って地下へと向かっていた鉱員たちは大変だったんだろうなと思います。
また公園内には、巨大な煙突が残されていました。
- 宮浦石炭記念公園に保存されている排煙用の煙突(国の登録有形文化財)
- 宮浦石炭記念公園に置かれた宮浦坑 中国人殉職者慰霊碑
レンガ造りのこちらの煙突は1888年に完成したボイラー排煙施設用の煙突で、国の登録有形文化財として、また「月が出た出た~」で知られる炭坑節のシンボルとして大切に保存されているそうです。
そして公園からは、遠目ではありますが大牟田工場の巨大な建物たちをごく一部ですが一望することができました(下の写真は35mm換算72mm (中望遠)で撮影)。
- 宮浦石炭記念公園から見た三井化学・大牟田工場 (中望遠で撮影)
またフェンス越しにはこちらも遠目ですが大牟田工場内を走る貨物列車の線路や車両も見えました。
- 三井化学専用線と炭鉱電車。2020年5月末に廃線予定
こちらは三井化学専用線で、世界遺産に登録されている三池炭鉱専用鉄道を転用したものだそうです。車両も三池炭鉱時代のものを用いており「炭鉱電車」として炭鉱が現役だったころから親しまれてきました。しかし2020年3月、2020年5月末で三井化学専用線と炭鉱電車の廃線・廃止が決定したと発表がありました。そのため、上の写真が現役の炭鉱電車をとらえた最初で最後の写真(←私にとって)となってしまいました。
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「宮浦石炭記念公園」は小さな公園でしたので滞在時間は10分程度でしたが、かつての三池炭鉱を偲ぶ様々な機械が保存されていたり、遠目でしたが大牟田工場や炭鉱電車を見れたりと見どころの多い公園でした。
2日目の途中ですが、今回の記事はここまでにしたいと思います。
この後は、いよいよ世界遺産・三池炭鉱 宮原坑や三池炭鉱専用鉄道敷跡へと向かいますが、今回の記事はここまでとなります。
続きは「世界遺産のまち・大牟田へ②~【世界遺産】三池炭鉱 宮原坑へ~―2018年 九州北部一周の旅・Part8」へ
「2018年12月 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら
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