大宰府観光〈前編〉~学問の神様・太宰府天満宮へ~―2018年 九州北部一周の旅・Part3

1日目・中編1(2018年12月15日)
~大宰府観光〈前編〉―学問の神様・太宰府天満宮へ―~

(「人生初の西鉄電車―2018年 九州北部一周の旅・Part2」の続き)

太宰府天満宮~学問の神様・菅原道真公に会いに~

参道

太宰府駅前のロータリーを抜けて右手へ進むと、そこには太宰府天満宮へと続く石畳の参道(天神さま通り)が延びていました。この日は土曜日ということもあり、参道は観光客であふれかえり、参道の両脇には店が建ち並んでいました。

中にはこんな個性的な店も↓

石ころ館というお店で店頭には石でできた某アニメの悪役キャラクターの置物が置いてありました。いろいろな石の置物が売っているのかなと中を覗いてみたら、石は石でもアクセサリー系の石(宝石)を取り扱っているお店で、男一人で入るような店ではありませんでした(笑)。

さて、参道を歩いていると鳥居が随所に立っていたり、

猫が座り込んでいたり、

とても斬新なデザインの某大手コーヒーチェーン店の店舗があったり(最初見たとき何の店か分からなかったです笑)、

と歩いていて楽しい参道でした。

その道中では、大宰府名物の梅ヶ枝(うめがえ)餅も頂きました↓

 

梅ヶ枝餅には”梅”の字が入っていたので梅味の餅かなと思いましたが、実際には梅は入っておらず、小豆を餅でくるんだシンプルなものでした。小豆の甘さを感じられる素朴な味でした。

そして参道の入り口からゆっくり歩くこと十数分、遂に太宰府天満宮の入り口の鳥居が見えてきました。

太宰府天満宮

太宰府天満宮とは?

太宰府天満宮の旅行記を綴る前に、太宰府天満宮とは何かというのを太宰府天満宮の公式HPや某フリー百科事典を始めとする各サイトを参考に簡単にまとめたいと思います。

———

太宰府天満宮は、福岡県太宰府市に建てられている神社で、平安時代の貴族であった菅原道真(すがわらのみちざね、西暦845~903)が祀られています。

学者一家であった菅原家に生まれた菅原道真は、幼少のころから学問に秀でており、わずか5歳で和歌を詠むなど”神童”と呼ばれていました。18歳には「文章生」(もんじょうしょう、エリートが集う学校で18歳での合格は最年少級)になり、そして若干33歳のときに学者としての最高位である「文章博士」になりました。

一方、貴族として政治の世界にいた菅原道真は、当時の天皇である宇多天皇の厚い信任を受け、学者としては珍しく政治の世界で出世していくことになります。そして899年、左大臣に次いでナンバー2に相当する右大臣(本来はナンバー3ですが、900年頃はナンバー1の太政大臣が不在だったため)に就任しました。

しかし元々は学者である菅原道真が、宇多天皇の重用を得て出世していくのを周りの公家は快く思っていませんでした。そして宇多天皇が退位して醍醐天皇の時代になった西暦901年、ナンバー1である左大臣・藤原時平の讒言(ねつ造)によって、菅原道真は国家を転覆させようとした罪人(←ざっくり言えば)に仕立て上げられ、(事実上の)罪人として大宰府に左遷されてしまいます。

そして西暦903年、菅原道真は無実を訴え続けながらも失意のまま大宰府の地で亡くなりました。

——–

903年の菅原道真の死後、都では次々と異変が起きました。都では疫病が流行ったり、異常気象が起こったりと不吉な出来事が立て続けに起きました。

そして菅原道真の死からわずか6年後、菅原道真失脚の中心人物であった左大臣・藤原時平がわずか39歳の若さで死去しました。

この頃からこれらの不吉・不幸な出来事は、ねつ造によって左遷され失意のうちに亡くなった「菅原道真の祟り」であるとの噂が広がりました。

その後も、
・913年に菅原道真失脚の重要人物で右大臣になっていた源光が鷹狩の最中に泥沼に沈み溺死
・921年には藤原時平の甥にあたり、醍醐天皇の第2皇子で皇太子でもあった保明親王がわずか21歳で死去
・925年には保明親王の子供で次の皇太子となった慶頼王がわずか5歳で死去
するなど、道真失脚に関わった貴族や藤原時平と血縁の深い皇族が相次いで死去しました。

ちなみに「道真の祟り」を恐れた醍醐天皇は道真の怨霊を鎮めるために、919年に大宰府の地にあった菅原道真の墓に社殿を立てたり、923年には菅原道真の罪を解いて右大臣を贈与しています。

しかし祟りは収まるところを知らず、菅原道真の死から27年が経った西暦930年、最大の事件が起こります。なんと醍醐天皇が住む清涼殿に落雷が落ち、当時会議で集まっていた貴族を含む7名の死者を出す大惨事が起きたのです。さらにその惨状を目の当たりにした醍醐天皇も精神的ショックから体調を崩し、約3か月後に死去してしまいました。

その後も、菅原道真を重用しながら失脚を防げなかった宇多上皇が翌931年に死去するなど、菅原道真の失脚に関与した天皇・皇族・貴族がわずか30年で相次いで死去したのです。その後も菅原道真の怨霊は収まらず、その怨霊を鎮めるための怨霊信仰・神格化が進むことになります(947年には京都に怨霊を鎮めるための神社として「神宮寺」が作られます)。

———

さて菅原道真は903年の死去の後、大宰府の地に葬られ、墓所は安楽寺というお寺になりました。その後、919年には先述の通り醍醐天皇が道真の怨霊を鎮めるために、この安楽寺に社殿を建てました。その後時を経て990年ごろから、大宰府の安楽寺と京都に建てられた神宮寺において天皇や皇族を祀る神社の社号である「天満宮」が用いられるようになりました。京都の神宮寺は建てられた土地の名を冠して「北野天満宮」、そして大宰府の安楽寺は「安楽寺天満宮」(後に「大宰府天満宮」)と呼ばれるようになったのです。

その後、200年以上の時を経て中世頃(12世紀以降)になると、菅原道真が幼少のころから学問に秀で、若い頃は優れた学者として活躍してきたことから「学問の神様」として信仰を集めるようになりました。こうして「学問の神様・菅原道真」が誕生し、太宰府天満宮は九州有数の観光地となったのです。

鳥居・御神牛

ここから旅行記の方に戻ります。

参道を歩いて太宰府天満宮の入り口の鳥居にやってきた私。

鳥居横の境内図によると、太宰府天満宮には本殿以外にもいくつかの社殿があるようですが、今回は太宰府での滞在時間が約1時間半しかないことから、真っすぐに本殿を目指し、さらに近くにある「天開稲荷神社」に向かうことにしました。

まず入り口の鳥居を抜けると、人々が行列を作っていました。

その先にあったのは、「御神牛(ごしんぎゅう)像」という牛の像です。

御紳牛像は、頭をなでると賢くなる、ケガや病気がある場所をなでると良くなる、といったご利益があるそうで、行列に並んでいた人たちも順番に牛の頭などを撫でていました。

御神牛像は太宰府天満宮の境内になんと11体もあるそうなので、入り口の御神牛像が混んでいたら他の御神牛像を探して撫でてみてもいいかもしれません。

ちなみに御神牛像がなぜ太宰府天満宮に置かれているのか、それは菅原道真と牛にまつわる数々のエピソードがあるからです:
・菅原道真が丑年生まれ
・菅原道真が出先で懐いてきた子牛を連れて帰り可愛がっていた
・大宰府へと向かう途中で刺客に襲われた際に牛に命を助けられた
・亡くなった日が丑の日だった
・道真の亡骸を運ぶ牛が途中で座り込んだため、その意志を汲んだ家来がその場所を墓所とした

特に最後のエピソードに出てくる牛が座り込んで墓所となった場所は、先述した安楽寺、すなわち現在の太宰府天満宮となった場所です。御神牛像も牛が座り込んだ像になっていますが、このエピソードを汲んで作られたと思います。

太鼓橋と心字池

御神牛のある場所で道は突き当りとなります。本殿へと向かうには左手に延びる道を進みます。

そして20秒ほど進むと、太宰府天満宮の名物の一つである太鼓橋と心字池が見えてきます。

心字池は、下の写真のようにとても趣のある池で、菅原道真が亡くなってから間もない905年に造られた歴史ある池だそうです。

一方の太鼓橋は心字池という池にかかる橋で、欄干は朱色で太鼓を連想させる半円状の橋になっています。

上り坂はそこそこきついですが、上からの眺めはそこそこ良かったです。

ちなみに最初に渡るこちらの太鼓橋は、仏教思想の三世一念の相のうち、「過去」を現す橋となっており、渡るときには”過去を振り返らない”という意味から後ろを振り返ってはいけないとされています。

またこの太鼓橋、縁切り橋との噂もあるのでカップルなどは注意したほうがいいかもしれません(私が渡るときにも前を複数のカップルが歩いていましたが、その後はどうなったのでしょう…)。

———

一つ目の太鼓橋を渡り切ると、その先には真っすぐな橋である直橋を渡ります。

直橋は仏教思想の三世一念の相のうち、「現在」を現す橋となっており、渡るときには”今を立ちどまらずに生きる”という意味から立ち止まってはいけないとされています。

———

そしてこの直橋を渡り切ると、心字池にかかる最後の橋である2つ目の太鼓橋が見えてきます。

この2つ目の太鼓橋は仏教思想の三世一念の相のうち、「未来」を現す橋となっており、渡るときには”未来につまずかない”という意味からつまずいてはいけないとされています。

ちなみに帰りにこれら3つの橋を渡るのは”過去を遡る”という意味になるので、これらの橋を渡らずに脇道から帰ると良いそうです。

———

この2つ目の太鼓橋を渡り切ると、再び鳥居が建っていました。

そしてこの鳥居をくぐると正面には本殿入り口にあたる楼門が見えてきます。

楼門

「楼門」は一見すると漢字的に「桜門」に似ているので「さくらもん」と呼んでしまいそうですが(というより本当にそう思っていました笑)、「ろうもん」と呼びます。古くは菅原道真のひ孫にあたる菅原輔正が建てたのが最初ですが、その後は幾度か消失しており、現在の楼門は1911年に建てられたものだそうです。

そしてこの楼門をくぐるといよいよ正面には太宰府天満宮の本殿が見えてきます。

本殿

楼門をくぐると本殿が真正面に見えてきました。晴れ渡る青空と緑生い茂る木々が周りを彩る中、茅葺(かやぶき)屋根で出来た本殿が視界の中央に鎮座していました。

個人的にはもっと朱色を強調した建物を想像していたので、この少し地味な造りの本殿に正直なところ少し興醒めしてしまいました。しかしこうして上の写真を振り返ると、これはこれで趣のある良い建物だと思えるようになりました。

本殿のあるこのエリアは四方を建物で取り囲まれており、左右にはお守り売り場が多数設けられていました。

そして本殿の前までやってきました。

本殿の左右には葉の落ちた木が左右1本ずつ建っていましたが、どうやらこれらの木々は太宰府天満宮では有名な梅の木だったそうです。

本殿に向かって右側の木は神木である「飛梅(とびうめ)」という樹齢1000年を超える梅の木です。飛梅伝説という伝説によると、菅原道真が大宰府に左遷された後、京都の菅原道真の邸宅で可愛がられていた梅の木が菅原道真との別れを惜しんで空を飛び、菅原道真がいる太宰府まで到達して根を下ろしたとされています。その伝説から「飛梅」と名付けられたそうです。

一方、本殿に向かって左側の木は「皇后(きさい)の梅」という梅の木です。こちらは神木ではなく、大正時代に大正天皇の皇后であった貞明皇后が自ら植えられた梅の木で、そのことから「皇后の梅」の名が付いています。

———

さて、いよいよ太宰府天満宮に参拝するために行列に並びました。

本殿の中では、何か行事が行われているようでした。

そして並ぶこと約5分、ようやくお参りすることができました。

———

お参りが終わった後は、お守りを買ったりおみくじを引いたりしました(ちなみにおみくじは吉でした)。

そして太宰府駅の改札を出てから約1時間後の15時15分頃、私は九州随一のパワースポットとして知られる天開稲荷神社を目指して太宰府天満宮を後にしました。

 


1日目の途中ですが、今回の記事はここまでとなります。

この後、九州随一のパワースポットとされる隠れた名所・天開稲荷神社へと向かいますが、続きは次回の記事で書きたいと思います。

続きは「大宰府観光〈後編〉~九州随一のパワースポット・天開稲荷神社へ~―2018年 九州北部一周の旅・Part4」へ

「2018年 九州北部一周の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら

 

コメント