5日目・後編(2018年3月2日)
~今は亡き湧網線を求めて~
(「2018年 北海道一周の旅・Part8ー山の上の流氷館へ」の続き)
今は亡き湧網線を求めて~網走市鉄道記念館・卯原内交通公園~
今は亡き湧網線
網走駅の待合室で10分ほど休憩した私は、再び網走駅前バス停に向かいました。ここからバスに乗車し、気になっていたもう一つの施設「網走市鉄道記念館」へと向かいました。
「網走市鉄道記念館」は網走市卯原内にある鉄道記念館で、すぐ横には蒸気機関車と客車を展示している「卯原内交通公園」が整備されています。この網走市鉄道記念館と卯原内交通公園はかつて存在していた湧網線・卯原内駅の跡地に作られた施設です。
湧網線―この路線名を聞いてピンとくる方は一般人は元より鉄道ファンですらあまり多くはないでしょう。それもそのはずで湧網線は今(2019年時点)から約32年前の1987年に廃止された路線です。
湧網線はかつて網走駅と北海道紋別郡上湧別町(1987年当時)の中湧別駅を結んでいた全長89.8kmの路線で、かつて北海道に存在していたオホーツク海沿岸の街を結ぶ路線の一つでした。車窓からはオホーツク海やサロマ湖、能取湖などを見ることができたといい、鉄道ファンの間では日本屈指の絶景路線として知られていました。しかし昭和の終わりから平成の初めにかけて行われた赤字ローカル線廃止の波に逆らうことは出来ず、1987年(昭和62年)3月20日に惜しまれつつも廃止となってしまったそうです。
これから訪れる網走市鉄道記念館にはそんな今は亡き湧網線の資料が展示されているとのことで、いま網走に足止めされていることを利用して訪問することにしました。
バスで辿る旧・湧網線の旅(網走~卯原内)
網走駅前バス停に向かった私は13時30分発の網走バスの「常呂線」・常呂バスターミナル行きに乗車しました。
湧網線廃止後はその代替バスとして網走バスの「湧網線」が運行されていました。しかし時が経つにつれて乗客の減少がさらに進み2010年に廃止となってしまいました。そのため現在ではかつての湧網線と同じルートをバスで全線乗り通すことすらほぼできなくなってしまいました(ちなみに途中1週間に数便しかない町内バスを乗り継げば全線辿ることができるらしいです…)。今から乗るバスも湧網線の途中駅であった旧・常呂駅(網走駅から40.3km、現在は常呂バスターミナル)までしか行きません。
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網走駅を出発したバスは先ほど乗車した「観光施設めぐり線」のバスと同じく国道39号沿いを走っていきます。網走刑務所バス停までは同じルートでしたが、「観光施設めぐり線」のバスがその先を左に曲がって国道39号を走り続けたのに対し、「常呂線」のバスはまっすぐ進んで国道238号の方を走ります。
かつての湧網線は常呂付近まで一貫して国道238号沿いを走り続けました。それに対しバスは国道238号をしばらく走った後、道道1010号、道道76号の順に進み、二見中央バス停付近から国道238号へと入るルートを取ります。
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国道238号に戻ってからしばらくすると少し変わった名前のバス停を通過しました。その名も「ミンク場跡地」。”跡地”という言葉がバス停名に入ることもさることながら、「ミンク場跡地」バス停周辺の道路の両側には木々が立ち並んでいるだけで、建物の残骸らしきものすらありませんでした。
調べてみたところ、まずミンクと言うのは体長70cm前後のイタチ科の比較的小さめの哺乳類のことで、元々は外来種だそうです。日本には高級毛皮の生産用として持ち込まれ、かつて北海道には多数のミンク飼育場があったそうです。しかし中国産ミンク毛皮の台頭や野生繁殖の問題などから2000年代に事実上消滅したそうです。
もう少し詳しく調べてみたところ、とあるブログの記事(2015年掲載)に「ミンク場跡地」バス停に関係すると思われる記述がありました。それによると15年くらい前(すなわち2000年頃)、国道238号沿いの林の中に壊れかけの古い木造の廃屋を車の車内から見たそうです。その壁には「ミンク飼育場」と書かれたペンキ剥がれかけの看板が掛けてあり、同乗者によるとかなり前に廃業になったミンク飼育場の跡地だったとのことです。地元の知人によるととある水産漁業会社のミンク飼育場かもしれないとのことでしたが詳細は分からなかったようです。
おそらく「ミンク場跡地」バス停はその廃屋があった場所に作られたバス停だと思いますが、なぜそんなところにバス停が存在し続けているのか謎のままでした。加えて私が見た時にはそのブログに書かれている廃屋らしきものすら見えませんでした。2000年当時で壊れかけの廃屋だったことを考えるとそれから約18年経った2018年現在には完全に自然に帰っていても不思議ではないかもしれませんね…
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さてバスは引き続き国道238号を能取湖沿いに走ります。そして網走駅を出発してから約25分後の13時55分頃、バスは「卯原内(鉄道記念館)」バス停に到着しました。このバス停に降り立ったのは私一人だけでした。
- 卯原内バス停(常呂方面)
- 卯原内バス停(網走方面)
バス停の周辺では相変わらず強風が吹き付けていました。そして道路を挟んだ反対側に目的の「網走市鉄道記念館」はありました。
網走市鉄道記念館・卯原内交通公園
「網走市鉄道記念館」は時計塔を併設した三角屋根が特徴の立派な建物でした。
- 網走市鉄道記念館
道路を渡り入口へと向かうと左手には雪に埋もれた看板と緑のシートに覆われた物体が見えました。どうやらこの記念館の左手一帯が卯原内交通公園で、緑のシートに覆われているのはおそらく展示されている蒸気機関車と客車だと思われます。しかし公園の敷地は完全に雪で覆われている上、強風が吹き付けており、人が立ち入ることは困難そうでした。
- 卯原内交通公園の看板
- 雪に埋もれた卯原内交通公園(展示車両は緑のシートに覆われている)
建物の入口から記念館の中に入ると、そこは薄暗い広めのスペースになっており、そこには管理人と思しき女性(60代くらい)とお孫さんと思しき小さい女の子が建物の中にいました。
目的の湧網線の資料室は2階にあるようなので、私は案内に従って2階に上がりました。
2階に上がると正面には目的の部屋がありました。しかし電気は消され、ドアには鍵がかけられていました。
しばらくどうしたものかと思いましたが、私は1階に降りて先ほど見かけた管理人に声をかけました。資料室に入りたいことを伝えると、管理人は鍵を事務所から取って2階の部屋を開けてくれました。
私が部屋に入ると管理人は下へと降りていきました。開けてもらった資料室は「卯原内湧網線資料室」と「卯原内小・中学校資料室」を兼ねているようで、正面から右手にかけては目的の湧網線など鉄道関連の資料が、左手には廃校となった卯原内小学校(2003年閉校)・卯原内中学校(1992年閉校)の資料が展示されていました。
- 網走市鉄道記念館2階の資料室入り口
- 2階資料室内に置かれた鉄道関連の資料
- 2階資料室内に置かれた卯原内小・中学校の資料
- 2階資料室から望む雪に覆われた能取湖
資料室はカーテンが閉められ少し湿っぽい感じでした。加えて外からの強い風で窓からすきま風の音が絶えず室内に響き渡っていました。そんな部屋にいるのは私一人だけ… 下からは先ほど見かけた女の子の声が時折り聞こえているとはいえ、それでも何か出るのではないかと思うとそこそこ怖かったです。とは言え鉄道に関する貴重な資料たちが出迎えてくれているのでそれを見ているうちに怖さはだいぶ和らぎました。
展示されている資料は湧網線にまつわるものもありますが、どちらかと言えば北海道各地から集めた資料が多い印象でした。昔使われていたであろう備品や列車側面に掲げる行き先案内板、駅名標などの貴重な資料が多数展示されていました。壁に掲げられていた卯原内駅の駅名標や発車時刻案内標などを見ていると昭和の終わりに廃止となった湧網線のかつての面影を少し体感できるようでした。
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その中でも印象に残ったのは、一つは湧網線が全通する前の昭和15年(1940年)の古い時刻表(昭和15年、1940年)です。昭和15年と言えば第二次世界大戦が始まって間もない頃で今(2018年)から約80年前の貴重な時刻表です。湧網線はこの頃、湧網西線(中湧別~中佐呂間(後の佐呂間))と湧網東線(網走~常呂)に分かれており、その両方の路線の時刻が乗っているページが開かれていました。
そのページには駅数・本数共に少ない路線の時刻表が掲載されていました。まず湧網西線を見てみると1日わずか4往復、所要時間は約1時間10分かかるとのことでした:
中湧別発下り列車:6:50発、11:05発、15:33発、20:10発
中佐呂間発上り列車:5:00発、8:20発、12:38発、17時01発
次に湧網東線を見てみるとこちらも1日4往復、所要時間も約1時間10分だったそうです。
網走発下り列車:9:32発、13:30発、17:10発、21:00発
常呂発上り列車:6:10発、11:08発、15:13発、18:44発
湧網線は1953年に全線直通し、1960年頃には1日7往復+区間列車2往復まで増えていったそうです。しかしその頃からの自動車の普及により乗客数は減少、廃止される直前(1980年代)の頃は1日わずか全線直通5往復+区間列車1便まで減っていました(網走~中湧別の所要時間は約2時間20分だったそうです)。今回この資料室で見た古い時刻表はそんなかつての湧網線が全通する前のとても貴重な時刻表だったと思います。
さらにその開かれた2ページにははるか昔に廃止となってしまった路線の時刻表が多数掲載されていました。その2ページに掲載されていた路線一覧は以下の通りです:
釧網本線
湧網西線・湧網東線(後の湧網線、1987年廃止)
渚滑線(1985年廃止)
名寄本線・湧別支線(本線と共に1989年廃止)
広尾線(1987年廃止)
士幌線(1987年廃止)
網走本線(後の池北線→北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線(2006年廃止)と石北本線・北見~網走)
十勝鉄道線(1977年廃止)
雄別鉄道(1984年廃止)
根室拓殖鉄道(かつての日本最東端の鉄道路線、1959年廃止)
北海道庁拓殖部植民鉄道・枝幸線(後の歌登町営軌道、1971年廃止)
北海道庁拓殖部植民鉄道・藻琴線(後の琴村村営軌道、1965年廃止)
このように数多くの路線が掲載されていましたが、このうち現代(2018年当時)に残っているのは釧網本線、および網走本線のうち石北本線に編入された北見~網走だけで、他の路線は湧網線も含めて平成の時代を迎えることなく廃止となってしまいました(2006年まで存続した北海道ちほく高原鉄道を除く)。
そんな昔の北海道の鉄路を垣間見ることができるとても貴重な時刻表でした。
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もう一つ印象に残ったのは、昭和の終わりから平成の初めにかけて相次いで廃止となったローカル線の記念品です。湧網線を始め、天北線、名寄本線、標津線、興浜北線、興浜南線、美幸線などなど。もし私がこの時代の人間だったら一度は乗ってみたかったローカル線ばかりです。現役時代に販売された記念乗車券、廃止間近に販売された「さよなら○○線」と書かれた木製の板など、在りし日の北海道の鉄路を偲ぶ数多くの資料が展示されていました。もし今のこれらの路線が現役だったら…と今でもよく思います。
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そんな貴重な資料たちを一人で堪能しつくした約40分間の見学でした。
網走駅への帰還
さて資料室を出た私は1階に戻り見学が終わった旨を管理人の女性に伝えました(14時45分頃)。
ここから再びバスに乗って網走駅に戻るのですが、次のバスは14時57分発とのことでした。
5分ほど建物の中に滞在した後、外に出てみましたが、来たときよりも風が強くなっており、バス停の付近まで行くと風が容赦なく打ち付けました。
なのでバス停から少し記念館よりの場所に立って風の影響を和らげつつ、バスを見逃さないように道路の方を監視しました(いかんせん、次のバスを逃したらその次は3時間後ですからね笑)。
バスは定刻より数分遅れてやってきました。バスの車内には人はほとんどおらず、無事に乗り込んだ私は旧・卯原内駅を後にしました。
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バスは網走駅に向かって走りますが、その道中に湧網線の痕跡を発見しました。それは網走湖の湖畔まで出て間もなく国道39号に合流する辺りでした。網走川を渡る際に車窓から明らかに線路の橋と思しき橋が川の上にかかっているのが見えました。
- 車窓に見える湧網線の橋脚(写真左手中央)
そう、これは紛れもないかつての湧網線の橋脚なのです。現在はサイクリングロードとして活用されているため橋の上に線路は残っていないそうですが、それでもこうやって廃止から30年以上経ってもなおこうして橋が残り続けていることを考えると感慨深い感じがしました。
(ちなみに湧網線の廃線跡のうち、この橋脚から常呂付近までの約30kmの区間はサイクリングロードとして整備されているそうなので、夏になれば自転車で湧網線の車窓を疑似体験することができるようです)
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バスに乗ってから約25分後の15時半頃、私は網走駅前バス停に戻ってきました。かつての湧網線の痕跡の一部を辿った約2時間の旅でした。
網走駅に戻ってきた私は前日と同じ駅前の某牛丼チェーン店で食事をしました。そしてその後は少し早いですがこの日の旅を終えてホテルへと戻ることにしました。
続きは「2018年 北海道一周の旅Ⅱ・Part10ー石北本線横断の旅」へ
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