2日目(後編)(2018年8月17日)
~三陸海岸縦断の旅(後編)―被災地・陸前高田の衝撃―~
(この記事は2019/6/22付で内容等の大幅な修正を加えました)
(「2018年 東北縦断の旅・Part3ー三陸海岸縦断の旅(前編)~人生初のBRTで気仙沼へ~」の続き)
気仙沼の市街地へ
気仙沼海の市
気仙沼駅に到着した私は、昼食を食べるためにタクシーに乗り市の中心部へと向かいました。向かった先は「気仙沼海の市」です。
「気仙沼海の市」は気仙沼市魚市場の横にある複合施設で、気仙沼港で水揚げされた海産物の販売を行ったり、商店・飲食店が軒を連ねたりしており、2階には日本唯一のシャークミュージアムも併設しています。
中に入ると、ミニ神社(海の子神社)や一膳分のいくらなどを販売している問屋(磯蔵)、お土産屋や鮮魚を販売するスペースなど1階だけでも様々な店や施設がありました。
私が昼食をとったのはそんな「気仙沼海の市」の1階にある飲食店「カネト水産」です。気仙沼港で水揚げされた魚を使った料理を提供しており、私は1000円で食べられる「まかない丼」を注文しました。
- 気仙沼海の市
- 気仙沼海の市の中にある神社
- 気仙沼海の市の中にある海鮮市場
- 気仙沼海の市の中の休憩スペース
- 昼食を食べた「カネト水産」
- 「カネト水産」の「まかない丼」(1000円)
気仙沼の海の幸を食べた後、しばらく「気仙沼海の市」を散策した私は、再びタクシーに乗り気仙沼駅へと戻りました。
気仙沼の復興状況
さてあの日の震災では、気仙沼市にも最大20mを超える津波が押し寄せ、死者・行方不明者は1357名にも上りました。視聴者が撮影した街々を襲う津波の様子や気仙沼港近くの石油タンクが倒壊して発生した大規模火災、陸地に打ち上げられた数々の大型漁船など、気仙沼市の惨状を当時の報道で目にした方も多いと思います。
タクシーから見た限りでは更地のままになっているような個所は見当たらず、復興は順調に進んでいるように見えました。しかしつい先日、震災から8年を迎えて放送された特集番組を見て、実際にはまだまだ復興が進んでいない地区もあるということを知りました。
大船渡線BRTの旅~車内から見る被災地・陸前高田の今~
大船渡線の旅
気仙沼駅に戻った私が次に乗るのは大船渡線BRTです。
大船渡線は岩手県内陸部にある県内第二の都市・一関市の一ノ関駅から沿岸の漁港の街・大船渡市の盛駅を結ぶ全長105.7kmの路線です。路線の形が竜のように見えることから「ドラゴンレール大船渡線」の愛称が付けられており、アニメやゲームで有名な「ポケモン」のキャラクターを装飾した観光列車「POKÉMON with YOUトレイン」が運行しています。
大船渡線もまたかつては一本の線路でつながっていました。しかしあの日の大津波で沿岸部の区間(気仙沼~盛)は気仙沼線と同様に壊滅的な被害を受けました。気仙沼~盛の区間にある12駅のうち半数の6駅が全壊、3つの橋脚が流出するなどし、気仙沼線と同様に再起不能に陥りました。そして気仙沼線の柳津~気仙沼の区間と同様に鉄路での復旧を断念し、気仙沼~盛の区間ではBRTによるバス運行が行われています。
気仙沼駅の構内に入り2番線のりばで待つこと数分、赤いバス(盛行き)が入線してきました。そして15時19分、バスは定刻通り終点の盛駅へと向けて出発しました。
- 気仙沼駅の2番線のりばから一ノ関方面を望む
- 気仙沼駅の2番線のりばから盛方面を望む
- 気仙沼駅に入線してきた盛行きBRT
- BRTの車内で発券された整理券
- かつての鉄道用トンネルを走るBRT(気仙沼~鹿折唐桑)
次の鹿折唐桑駅は気仙沼湾の北側600mのところにある駅で、気仙沼市の市街地の北側にあたる鹿折地区にあります。あの日の大津波では駅舎やホームそのものには大きな被害はなかったそうですが、駅前には大津波の象徴として有名な重さ330トンの大型漁船「第18共徳丸」が打ち上げられ(2013年に解体)、駅前には大量のがれきが散乱していたといいます。加えて鹿折地区は津波が引いた後に大火災に見舞われるなど、津波と火災により壊滅的な被害を受けました。
鹿折唐桑駅を出発したバスは間もなく一般道に入り、気仙沼線BRTでもお世話になった国道45号を北上していきます。この鹿折唐桑駅から陸前高田駅までの区間は震災前までは山の中を走っていました。しかし震災後に運行を開始したBRTは海沿いの国道45号を走るルートとなりました。そのため、気仙沼駅発盛行きのBRTは鉄道時代の途中駅である上鹿折、陸前矢作、竹駒駅を通らないルートになっています(なお気仙沼から上鹿折まではミヤコ―バス鹿折金山線の一部区間をBRTとして運行しています。また陸前矢作から陸前高田までの区間は別途BRTが運行しており、一部バスは陸前高田市内の循環線の役割を担っています)。
- 鹿折唐桑を出て間もなくバス専用道を出ようとする大船渡線BRT
- 大船渡線BRTの車内より撮影した最新式(?)の薄っぺらい信号機
- 大船渡線BRTの車内から望む広田湾(BRT長部駅付近)
BRTの車内から見る被災地・陸前高田の衝撃
陸前高田の概要
大船渡線BRTのバスは国道45号を北へと走りいつしか岩手県に入りました。鹿折唐桑駅から2つ隣(2018年8月当時)の長部駅を出ると、次の駅は復興の象徴として有名な「奇跡の一本松」の最寄り駅・「奇跡の一本松駅」とアナウンスがありました。あとどれくらいで着くか分からなかったものの、震災で壊滅的な被害を受けた岩手県南部の沿岸の街・陸前高田の中心街が近づいていました。
陸前高田ーこの名前に聞き覚えがある方も多いでしょう。あの日の大津波で壊滅的な被害を受けた街の一つであり、津波によって破壊された数々の建物(後述)の姿をテレビで見た方も多いと思います。
陸前高田市は岩手県南部の沿岸の街で、海に面している街では岩手県で最も南にある街です。あの日、陸前高田に到達した津波の高さは18mに達していたとも言われ、沿岸沿い・気仙川沿いにあった市の中心部は壊滅的な被害を受けました。指定避難所でありながら屋上まで水没した3階建て(一部4階建て)の市役所を始め、家屋、病院、商業施設など多くの建物が津波の被害を受けました。死者・行方不明者は合わせて1800名を超え、市町村別では石巻市に次いで2番目に多い犠牲者を出しています。また復興の象徴としてもっとも有名な「奇跡の一本松」があるのもこの陸前高田の街です。
この陸前高田の街で見た光景は個人的にこの旅の中で一番衝撃的なものでした。
震災遺構・旧気仙中学校
気仙沼駅を出て約25分、バスは幾つか目の山を越えて標高を下げながら左カーブを曲がっていました。
左カーブを抜けて間もなく、車窓右手に見えたのは廃墟のように見える3階建ての建物でした。何の建物だろうと思いつつ、とりあえず通過直前に1枚撮り、通過直後にもう1枚、今度は裏側を撮影しました。その瞬間目にした光景に私は目を疑いました。なんと建物3階の床に瓦礫が散乱していたのです… これを目の当たりにした私は、この廃墟があの日の大津波に襲われた建物(震災遺構)であることを悟りました。
- 震災遺構・旧気仙中学校
- 震災遺構・旧気仙中学校。2階の屋根や3階の床にあの日の津波の瓦礫が散乱したまま残っています
後の調べによると、この建物は震災遺構の旧気仙中学校だそうです。あの日の大津波はこの気仙中学校を容赦なく襲い、屋上まで完全に水没したそうです(屋上に津波の高さを表す看板が設置されています)。窓ガラスは跡形もなく消え去り、一部の教室は壁をも破壊し瓦礫が散乱したままの床がバスの車内から見える状態になっていたのです。
これだけの惨事に関わらず、生徒や教員は高台に避難して全員無事であったことは奇跡と言うべきか日ごろの避難訓練の賜物と言うべきか分かりません。いずれにせよ震災から7年以上経って当時のまま残る震災遺構・旧気仙中学校の姿は、バスにのんびりと揺られ続けある意味油断し切っていた私にとってはあまりにも衝撃的な光景でした。
そしてこの建物を皮切りにバスは陸前高田の中心部へと進んでいきます。
奇跡の一本松
震災遺構・旧気仙中学校の光景にショックを受ける中、バスは間もなく市内を流れる気仙川を渡り始めました。すると車窓右手の奥に一本の細い木が立っているのが見えました。最初は何か分かりませんでしたが、すぐにこれがあの有名な「奇跡の一本松」だと気付きました。
- 気仙川と対岸に見える奇跡の一本松&震災遺構・旧陸前高田ユースホテル
「奇跡の一本松」。それは震災後の復興の象徴としてあまりにも有名な1本の松の木です。
陸前高田市が面している広田湾沿岸にはかつて日本百景にも選ばれた「高田松原」と呼ばれる景勝地が広がっていました。沿岸に沿って約7万本の松の木が植えられていたといい、その松の木と白い砂浜が織りなす白砂青松の景色は陸前高田の観光資源の一つであったといいます。
しかしあの日襲った大津波はそんな高田松原の松の木を容赦なくなぎ倒し、全滅に近い被害を受けました。しかし沿岸に建つ陸前高田ユースホテルの背後にあった1本の松だけが奇跡的に生き残りました。そしていつしか「奇跡の一本松」や「希望の松」の愛称で復興のシンボルとなり、当時の報道でもたびたび取り上げられるようになりました。
そんな生き残りの「奇跡の一本松」ですが、震災から半年後には枯死しており、現在立つ「奇跡の一本松」は防腐処理と補強処理を施したうえで保存されたものとなっています。
バスの車内からは、震災後に増設されたであろう白い堤防の手前に立つ「奇跡の一本松」と震災遺構として保存が決まっている「陸前高田ユースホテル」の姿が遠目に見えるだけでした。その後もバスは「奇跡の一本松」に近づくことなく国道45号を走り続けました。
更地が広がるかつての中心街
「奇跡の一本松」が見えなくなった後も次の停車駅・奇跡の一本松駅にはまだ到着していませんでした。しばらくすると、バスは国道45号を離れ内陸へと続く県道340号へと入りました。それから間もなく、ようやく奇跡の一本松駅に到着しました。しかし先ほど見えた奇跡の一本松からはだいぶ離れており、正直なところこれを最寄り駅と言っていいのだろうかとさえも感じました。
しかしそれ以上に愕然としたのは、気仙川を渡ってから奇跡の一本松駅に到着するまでの間、車窓には土がむき出しの更地が一面に広がっていたことです。
- バス車内から見る陸前高田の旧市街地1(国道45号沿い)
- バス車内から見る陸前高田の旧市街地2(国道45号と国道340号の交差点)
- バス車内から見る陸前高田の旧市街地3(国道340号沿い)
- バス車内から見る陸前高田の旧市街地4(国道340号沿い)
このあたりはかつての陸前高田市の市街地だった場所です。
私がこれまで見てきた沿岸の街は多少工事中のところはあっても、建物はそれなりに建つなど概ね復興している印象でした。草原が広がっていた震災遺構の旧野蒜駅周辺でさえも家などがちらほら見られており、復興公園も整備されていました。
しかしこの陸前高田の旧市街地はまったくの更地でした。旧市街地に入ってからここまでで見た建物といえば震災遺構と建設途中の堤防くらいです。この復興の遅さには愕然としました。そして同時にあの日の津波の被害がどれだけ甚大なものだったのかを改めて実感しました。
そしてかつてこの一帯には家や商業施設など一つの街があったことを考えると、それをすべて飲み込んだ津波の恐ろしさを改めて実感させられました。
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ここまで陸前高田について様々なことを書いてきましたが、震災遺構の旧気仙中学校を見てからBRT奇跡の一本松駅を出発して上の4枚目の写真を撮るまでわずか5分間です。このわずか5分の間にあの日の陸前高田の惨状を垣間見ることになったのですが、そのとき受けた衝撃は今後も忘れることはないと思います。
陸前高田の新市街地へ
奇跡の一本松駅を出発してしばらくすると、バスは国道340号を離れ東へと進路を変えました。そしてそこには真新しい街並みが見えてきました。
震災後の陸前高田市は、大津波の悲劇を二度と起こさないために市の機能と居住区をかさ上げした内陸部の高台へと移転したそうです。先ほどの国道45号や340号沿いの沿岸部に更地が広がっていたのも、住民が内陸部へと移動しそちらの復興を優先させたためだと思われます。
なお沿岸部、特に国道45号の南側一帯(一部北側も含む)は「高田松原津波復興記念公園」として整備中であり、奇跡の一本松と4つの震災遺構(旧気仙中学校、旧陸前高田ユースホテル、タピック45(旧道の駅高田松原)、旧定住促進住宅)が保存され、伝承館などの建物や施設が建設されるといいます。
とは言え、かつて住んでいた沿岸部を離れて内陸部の高台へと移住せざるを得なかった状況を考えると何とも言えない気持ちになります。
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さてBRTの車窓から眺める高台移転後の陸前高田の街は新しいもののどこか寂しいものでした。特にBRTの陸前高田駅の周りには真新しい商業施設と広い駐車場があるだけで、駅での乗降もあまりなかったように思えます(ただし地図を見るとBRT陸前高田駅は新市街地の南端にある一区画にあるため、今回見たのは今の陸前高田の街のほんの一部でしかない)。
大船渡線の終点・盛へ
陸前高田駅を出発したバスはしばらく一般道を走ったのち、2駅先(2018年8月当時)の小友駅の少し手前よりバス専用道路へと入りました。そして小友駅を出ると私以外の乗客は誰もいなくなりました。まさしく”そして誰もいなくなった”状態です。バスは運転士と私の2人だけを載せてバス専用道路を北へとひた走りました。
- 大船渡線BRTの車窓に広がる緑の大地(陸前高田~脇ノ沢)
- 大船渡線BRTの車窓に広がる緑の大地と広田湾(脇ノ沢駅付近)
- 誰もいなくなったBRTの車内(小友~碁石海岸口)
小友駅から2つ隣の細浦駅で乗客が数名乗ってきて乗客が私一人だけという状態は解消されました。細浦駅を出ると車窓には大船渡湾が一面に広がっていました。
- BRTの車窓に広がる大船渡湾(細浦~下船渡)
- BRT下船渡駅
- 大船渡線BRTの車窓(大船渡魚市場駅付近)
- BRT大船渡駅と背後に建つ真新しい建物
気仙沼駅を出発して約1時間15分後の16時33分、定刻より約6分遅れで終点の盛駅に到着しました。
盛駅
盛駅は大船渡線の終点であるとともに、第三セクターである三陸鉄道・南リアス線(2019年3月23日より三陸鉄道・リアス線に統合)の起点駅でもあります。大船渡市の代表駅は一つ手前の大船渡駅ですが、盛駅は市役所の最寄り駅であるなど市の中心駅の役割を果たしています。
盛駅に降り立つと、震災前の頃から残っているであろう立派な古びた跨線橋が出迎えてくれました。盛駅の1番線・2番線ホームにはかつては線路が敷かれていたであろうが、今はアスファルトの道路によって埋められていました。
- 盛駅の駅構内の様子
- 盛駅の1番線のりば
- JR盛駅の駅名標
- 盛駅の1番線ホーム
- 2・3番線へと向かう構内通路
- JR盛駅の駅舎
- 盛駅の駅前の様子1
- 盛駅の駅前の様子2
- 盛駅の駅前に設置された観光案内図
JR盛駅の駅舎を出ると目の前にはこじんまりとした駅前ロータリーがありました。そしてJR盛駅の駅舎の隣にはカラフルな看板を掲げた三陸鉄道・盛駅の駅舎が並んでいました。
- JR盛駅の駅舎(右)と三陸鉄道・盛駅の駅舎(左)
- JR盛駅の駅舎
- JR盛駅の駅舎出入口
- 三陸鉄道・盛駅の駅舎
- 三陸鉄道・盛駅の駅舎の側面にあった路線名改称の案内幕
- 三陸鉄道・盛駅の駅舎内の待合スペース
JR盛駅の駅舎の右手に公営の跨線橋があったのでそこに上って駅構内を撮影してみました。跨線橋の南側(気仙沼方面、下の写真の1枚目)には三陸鉄道の車庫が置かれており、複数の線路が敷かれていました。そして跨線橋の北側(下の写真の2枚目)からは、大船渡線BRTの道路と三陸鉄道の線路が敷かれた盛駅構内が見えました。
- 公営の跨線橋から盛駅南側を望む
- 公営の跨線橋から盛駅構内を望む
三陸鉄道・南リアス線の旅
三陸鉄道・盛駅
盛駅構内に戻った私は道路を横断して三陸鉄道の発着する3番線ホームへと向かいました。3番線には1両編成の普通・釜石行きが停まっていました。
- 道路の上から盛駅構内を望む
- 道路の上から盛駅の南側を望む
- 盛駅2・3番線ホームから1番線ホームの跨線橋の下側を撮影
- 盛駅3番線ホームに停車中の普通・釜石行き
- 盛駅2・3番線ホーム
- 三陸鉄道・盛駅の駅名標
さらに駅の北側へと歩くとそこにはなぜか線路の終端を表す車止めがありました。なぜだろうと思って調べてみると、この盛駅はスイッチバック駅となっており、盛駅を出発した三陸鉄道の列車は北へと向かわずに南に向けて発車し、しばらく南東方向に進むことが分かりました。
その事実に少し驚きながら列車内に乗り込むと、車内はひまわりの装飾で飾られていました。そんな夏を感じさせる涼しい車内で発車のときを待ちました。
- 盛駅北側のBRTの車両基地と三陸鉄道の線路の車止め
- 盛駅の北側から2・3番線ホームを望む
- ひまわりの装飾が施された普通・釜石行きの車内
- 三陸鉄道の乗車券
そして列車は16時50分、定刻通り盛駅を出発しました。
三陸鉄道・南リアス線の旅
盛駅を出発した列車はしばらく大船渡線BRTの道路と並走しながら南へと走ります。やがて列車はBRTの道路から別れを告げ大船渡湾の東側を東南へと走ります。
気仙沼線の柳津駅で列車を降りて以来、久しぶりの列車旅です。しかしBRTのバス旅が長かったせいか、はたまた三陸海岸沿いの被災地の現状を数多く見てきていろいろと考えさせられたせいか、石巻線や気仙沼線の列車に今朝乗ったことが昨日のことのように遠く感じられました。
- 三陸鉄道と並走するBRTの道路
さてここから乗る三陸鉄道・南リアス線はかつて大船渡線の終点・盛駅と、岩手県屈指の水産の街・釜石市の釜石駅を海岸沿いに結んでいた全長36.6kmの路線です。
あの日の大震災では、南リアス線もまた他の沿岸部の路線と同様に、津波により甚大な被害を受けました。線路の流出や鉄橋の崩壊など被害は甚大で、全線の復旧までに3年を要したものの、BRTではなく鉄路での再開にこぎつくことができました。
この記事を公開した3日後の2019年3月23日、南リアス線は、JR山田線の釜石~宮古間の三陸鉄道への移管&復旧に伴い、盛~釜石~宮古~久慈の区間を結ぶ三陸鉄道・リアス線に統合され、南リアス線の名称は、北リアス線(宮古~久慈を結んでいた三陸鉄道の路線)と共に消滅する予定となっています。
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盛駅から2駅先の綾里駅を過ぎて進路を北へと変えた列車は、次の駅に停車しました。その名も「恋し浜駅」。日本に4つある”恋の駅”の一つで、真っ青で綺麗な駅名標が特に目を引きました。もともとこの駅は集落の名前にちなんで”小石浜駅”という駅名でしたが、ここで販売されているホタテ貝のブランド「恋し浜」にちなんで約9年前の2009年に”恋し浜駅”に改称されました。以降、”恋の駅”として全国から人が来るようになったといい、実際に私の乗っていた列車からも一組のカップルと思しき若い男女が下車していきました。私はそれを横目に見ながら列車で釜石へと目指しました。
- 三陸鉄道の車窓から望む海(綾里~恋し浜)
- 恋し浜駅の真っ青で綺麗な駅名標
- 恋し浜駅のホームより集落と海を望む
次の甫嶺駅からは海が見えますが、そこには巨大に防潮堤が建設されていました。あの日、甫嶺駅には高さ15.5mの津波が押し寄せたといい、標高15.9mの築堤上にあったホームは流出を免れたものの、線路には瓦礫が散乱し、駅の南側のレールは大きくえぐり取られていたといいます。2018年現在、海側の車窓には真新しい巨大な防潮堤と雑草の生えた野原が見えるだけでした。
- 甫嶺駅停車中の列車から巨大な防潮堤と津波でさらわれ野原と化した平地を望む
- 甫嶺駅発車直後の車窓から見る野原と一枚の看板
甫嶺駅を出発してしばらくすると再び別の防潮堤と手前に広がる草原が見えてきました。それから間もなく、列車は三陸駅に到着しました。
三陸駅はかつての三陸町(現在は大船渡市三陸町)の代表駅であったことから付けられた駅で、南リアス線のほぼ中間に位置します。三陸駅の目の前にも巨大な防潮堤があり、あの日の悲劇を繰り返さないための対策が至る所で施されているようでした。
- 三陸鉄道の車窓から見る防潮堤(甫嶺~三陸)
- 三陸駅のホームと奥に見える防潮堤1
- 三陸駅のホームと奥に見える防潮堤2
三陸駅を出発した列車はやがて釜石市内に入り、引き続き海岸沿いを北へとひた走ります。トンネルの区間も多いですが所々で三陸海岸の海を一望できました。
盛駅を出発してから約50分後の17時39分、釜石市内の中心部を流れる甲子川を2回渡った列車は終点の釜石駅に到着しました。今日の旅はここまでとなります。
そして宮城県の仙台から1日半続いた被災地を巡る旅もここで終わりとなります(ここより北の区間は三陸鉄道・リアス線の全通後に訪れたい)。今回の旅路では被災地の現状の一端しか見られなかったものの、それだけでもいろいろと感じ考えさせられた濃密な1日半でした。
釜石駅
釜石駅は2018年当時、三陸鉄道・南リアス線、JR山田線、JR釜石線の3路線(2019年3月23日以降は三陸鉄道・リアス線とJR釜石線の2路線)が乗り入れる釜石市の中心駅です。私が訪れた頃はJR山田線の宮古~釜石の区間(2019年3月23日以降は三陸鉄道・リアス線の一部)は運休となったままで、宮古方面を向かうには地元のバス路線を乗り継いでいく必要があり、鉄路ではこれより北へは行けない状態でした。
三陸鉄道の釜石駅のホームは1面1線の小さな駅で、JRの釜石駅のホームからは少し離れていました。
- 釜石駅に到着した列車
- 三陸鉄道の線路の車止めと停車中のJRの車両
- 三陸鉄道のホームから望むJR釜石駅のホーム
- 三陸鉄道・釜石駅の駅名標
- 三陸鉄道の車両と湯気が立ち上る新日鐵住金釜石製鉄所の建物
ホームから階段を下りるとそこには薄暗い地下の連絡通路があり、まっすぐ進むと三陸鉄道・釜石駅の改札に到達しました(なお途中でJRのホームに向かう階段もあります)。改札を出るとその先には扉があり、中は窓口と待合スペースとなっていました。
- 三陸鉄道・釜石駅の改札口とホームへと続く連絡通路
- 三陸鉄道・釜石駅の駅舎内の様子1
- 三陸鉄道・釜石駅の駅舎内の様子2
外に出ると目の前にはロータリー&駐車場があり、その奥に新日鐵住金・釜石製鉄所の建物が鎮座していました。そして振り返ると今出てきた三陸鉄道の駅舎の左隣にはシックなたたずまいのJR釜石駅の駅舎が建っていました。
- 三陸鉄道・釜石駅の駅舎
- 釜石駅前の様子
- JR釜石駅の駅舎
- JR釜石駅の駅舎(別アングル)
釜石駅は市内を流れる甲子川の南西側に位置していますが、釜石駅の市街地は甲子川の北東側に形成されているそうです。そのため多くの飲食店は川を渡った先(近場でも徒歩5分はかかる)にあり、夜はそこまで食べに行くことも考えていました(駅前に飲食店などが入る駅前橋上市場「サン・フィッシュ釜石」という施設もあるが、午後4時で営業を終えています)。しかしここまでの長旅で疲れていたことからこの日は駅前のコンビニで弁当を買い、JR釜石駅の左隣に建つ「ホテルフォルクローロ三陸釜石」へと入り、翌日に備えて休息を取ったのでした。
続きは「2018年 東北縦断の旅・Part5ー東北”横断”の旅~万緑のローカル線をゆく~」へ
「2018年 東北縦断の旅」のその他の記事はこちら、その他の旅行記はこちら
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