2018年 東北縦断の旅・Part 3ー三陸海岸縦断の旅(前編)~人生初のBRTで気仙沼へ~

2日目(前編)(2018年8月17日)
~三陸海岸縦断の旅(前編)―人生初のBRTで気仙沼へ―~

(このページは2019/6/22付で大幅な修正を加えました)

(「2018年 東北縦断の旅・Part2ー震災遺構・旧野蒜駅を訪ねて」の続き)

石巻線の旅

石巻線 石巻~女川

朝7時45分頃、私は快晴の石巻駅に到着しました。今日の旅はここ石巻から石巻線、気仙沼線、大船渡線、三陸鉄道南リアス線(2017年当時)とあの日の大津波で甚大な被害を受けた太平洋沿岸の路線を乗り継ぎ、岩手県釜石市の釜石駅を目指します。

石巻駅の駅舎に入ろうとしたとき、入り口右手の窓ガラスにあの日の津波の高さを示す目印が張ってあるのが見えました。津波の高さは地面からだと膝から太ももくらいの高さでそこまでは高くはなかったようです(とは言え人を押し流すには十分な高さであり決して低くはないですが)。しかしながら沿岸から遠く離れた石巻駅にも津波が到達し駅が浸水したことを考えると何ともいたたまれない気持ちになりました。

改札を通り跨線橋を渡って4・5番線ホームに向かうとすでに目的の列車である石巻線の普通・女川行きが停車していました。

 

ここから乗る石巻線は、東北本線と陸羽東線が乗り入れる小牛田(こごた)駅と日本有数の漁港の街・女川を結ぶ全長44.7kmの路線です。石巻駅は小牛田から27.9kmのところに位置する途中駅で、今日の旅では始めに女川方面に向かいました。

朝8時1分、列車は定刻通り石巻駅を出発しました。出発して間もなく列車は旧北上川を渡り、女川方面へと進んでいきます。

やがて車窓の右手には太陽に照らされ輝いている湖が見えてきました。この湖は万石浦(まんごくうら)と言い、湖の南西側で海とつながっているそうです。

万石浦が見えなくなり浦宿駅に到着すると次は早くも終点の女川駅です。石巻駅を出発してから25分後の午前8時26分、トンネルを抜けて右にカーブした列車は定刻通りに終点・女川駅に到着しました。

女川駅

女川駅の駅舎を出ると目の前にはおしゃれな広場が広がっていました。その先には2015年12月にオープンした商店街「シーパルピア女川」が真っすぐ続いており、奥には海も見えていました。商店街へと向かう乗客の中には若い女性の集団もおり、太陽に照らされ海からの潮風が吹く中、彼女たちが商店街へと歩いていく姿はどこか輝いているように見えました。

そして振り返ると木目調の立派で真新しい駅舎が目に入りました。この女川駅の駅舎は2015年3月に営業を開始した鉄骨3階建ての駅舎で、2階には町営の温泉施設「女川温泉ゆぽっぽ」が入り、3階は展望フロアになっているそうです。

ではなぜ女川駅の駅舎や駅前広場はこんなにも新しいのか―この記事を書くにあたり調べてみたところ、それはあの日、かつての女川駅が津波で全壊したためでした。

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あの日、女川町にも大津波が押し寄せました。押し寄せた津波の高さは最大14.8m。死者574名、家屋の2/3が全壊するなど壊滅的な被害を受けました。かつての女川駅は今の女川駅よりも200m海側(シーパルピア女川の敷地内)にあったそうですがそこも例外ではありませんでした。ネットで探した震災直後の女川駅の写真を見てみると、駅舎は流され跡形もなくなり、ホームの土台とエレベーターの骨組みだけが残っている―そんな無残な状態でした。その他にも女川駅に停車中だった3両編成の列車も流され内陸側に200m離れたところで無残な姿になって発見されるなど、壊滅的な被害を受けました。

石巻線は震災後順次運転を再開しましたが、壊滅的な被害を受けた女川駅と一つ手前の浦宿の間は復旧に4年もの歳月を費やしました。現在の女川駅は元あった場所から200m内陸側の土地を約8mかさ上げした上で建てられ、震災から4年経ったの2015年3月より営業を開始しました。

あの日の震災で女川町もまた甚大な被害を受けました。津波で女川駅が全壊したこと、今の女川駅が内陸側に移設されていたこと、今の女川駅や「シーパルピア女川」のあたりはかつては住宅やビルなどでひしめき合っていたこと、そして震災後、住民は高台に移転し、駅前は商業施設として整備されたこと。後で調べて初めて知ったことなので、ここを訪れたときには知りませんでしたが、いまこうして経緯を知り、かつての悲劇を乗り越えてあのおしゃれな駅舎や駅前広場、商店街が整備されたのだと考えるといたたまれない気持ちになります。

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さて本当は「シーパルピア女川」の中を散策して海まで出たいところでしたが、今回は旅程の都合上、滞在時間はわずか8分しかありませんでした。そのため、駅前と駅舎の写真を撮った私は足早に駅構内に戻りました。そして真新しい駅構内の写真を撮り、先ほどまで乗車していた列車に乗り込みました。

石巻線 女川~石巻~前谷地

女川駅を定刻通り8時34分に出発した列車は元来た道を戻り、25分後の8時59分に石巻駅に到着しました。石巻駅に近づくにつれて車内は学生やお年寄りなどでそこそこ混み合っていましたが、石巻駅でその多くが下車しました。列車は石巻駅に13分停車し、9時12分に定刻通り小牛田方面に向けて出発しました。

石巻駅を出発した列車は沿岸を離れ内陸へと向かいました。車窓にはいつしか緑に覆われたのどかな田園風景が広がるようになっていました。

前谷地駅

石巻駅を出発してから18分後の午前9時30分、列車は前谷地駅に到着しました。

前谷地駅は石巻市の北西部にある小さな駅ですが、同時にここから気仙沼方面へと向かう気仙沼線の始発駅ともなっています。前谷地駅に到着した私はここで途中下車しました。

ホームから駅舎を抜けて前谷地駅の駅前に出ると目の前には1本の通りが奥へと続いており、大きな店などはない様子でした。

そんな駅前の光景で目についたのは、駅舎を出て左前方にあるBRTの前谷地駅でした。

BRTとは、バス高速輸送システム(Bus Rapid Transit)の略で、簡単に言えばバス専用道などを用いることで普通の路線バスよりも速達性・定時性を確保できる次世代のバスシステムのことです。

後でも紹介しますが、気仙沼線の柳津~気仙沼の区間は、鉄道の代わりにこのBRTを用いたバス運行が行われています。このBRTの一部バスが前谷地駅に乗り入れていることから、この前谷地駅にもBRTの駅が設置されていました。

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さてホームに戻り列車を待っていると、次第に人が集まってきました。そして午前10時ちょうど、気仙沼線の柳津駅から来た石巻線直通の普通・小牛田行きがやってきました。私はこの列車に乗り込み石巻線の起点・小牛田駅を目指しました。

石巻線の起点・小牛田駅へ

前谷地駅を出発して15分後の午前10時15分、列車は定刻通り終点の小牛田(こごた)駅に到着しました。小牛田の街はそこまで大きくはありませんが、3つの路線(東北本線、陸羽東線、石巻線)が乗り入れていることから駅の規模自体は大きく、構内には雑草に覆われた留置線が多数敷かれているのが印象的でした。

駅前を軽く見た後、駅構内に戻り向かったのは先ほど降り立った4番線ホームです。前谷地駅より乗ってきた列車が折り返しの普通・柳津行き(気仙沼線直通)になることから再びこの列車に乗り込みました。ちなみに着いた時には気づきませんでしたが、2両編成の列車は1両目と2両目で異なるラッピングが施されており、柳津側の車両は特別塗装となっていました。

そして午前10時40分、列車は定刻通りに小牛田駅を出発しました。

気仙沼線の旅~人生初のBRTで気仙沼へ~

鉄路の終点・柳津駅へ

午前10時40分に定刻通り出発した気仙沼線直通の普通・柳津行きの列車は、今まで乗ってきた石巻線を再び石巻方面へと走りました。そして気仙沼線の起点となる前谷地駅で石巻線に別れを告げ、列車は旧北上川に沿って北へと進んでいきました。

気仙沼線は前谷地駅と漁港の街・気仙沼市の気仙沼駅を結ぶ全長72.8kmの路線です。かつては一本の線路でつながっていた路線でしたが、あの日の大津波で沿岸を走る区間が甚大な被害を受け、現在は柳津~気仙沼の区間(55.3km、全長の約3/4)でバス高速輸送システム(BRT)によるバス運行が行われています。

車窓に田園風景が広がる中、北上川にかかる鉄橋を渡ると終点の柳津駅に到着しました。小牛田を出発して約40分、起点の前谷地駅を出発してから23分の旅路でした。

列車を降りるとまず目に入ったのが線路が撤去されたかつての2番線ホームの跡地でした。

その光景に寂しさを感じながらホームを気仙沼方面に歩きました。そして次に目に入ったのは次駅の陸前横山の名が消された柳津駅の駅名標でした。

そこから(上の写真の1枚目から)真っすぐ数m歩き通路の舗装が新しくなったところで左側が開けました。そこには線路の終端を表す車止めが置かれ、正面には道路が続いていました。つまり気仙沼線の鉄路がここで途切れ終点になっていることを物語っていました。

気仙沼線そのものはこの先も終点・気仙沼駅まで続いており、かつては線路も敷かれていました。しかしあの日、沿岸を走る陸前戸倉(柳津駅の2つ隣)~南気仙沼(気仙沼駅の2つ手前)の区間は津波により壊滅的な被害を受けました。陸前戸倉~南気仙沼の区間にある14の駅のうち9駅が流出、線路も甚大な被害を受け同区間は再起不能の状態に陥りました。

これに対し、JR東日本は復旧費用の高騰および利用者の低迷から鉄路での復旧を断念しました。そして柳津駅から気仙沼駅までの区間にBRT(高速バス輸送システム)を導入してバス運行を開始し現在(2017年当時)に至っています。

BRTの特徴の一つにバス専用道路が挙げられますが、先ほど奥に見えた道路がそのバス専用道路です。この道路にはかつては線路が敷かれており、柳津駅周辺の線路ではあの日の津波による被害もありませんでした。しかしバス専用道路の整備のために残念ながら撤去され、私が訪れる約1か月前の2018年7月1日より運用が開始されたばかりでした(それ以前のBRTは駅舎前にバス停があり一般道を用いていたそうです)。また同時に2番線ホームの線路も撤去され、駅名標の陸前横山の文字も消されました。

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通路を奥に進みBRTの柳津駅入り口に着くと、そこには一般車の侵入防止のための遮断機が取り付けられ、その先にバス乗り場がありました。バス停の奥の道路はちょうど線路1本分の幅で、鉄道時代から使われていたであろう狭いトンネルへと続いていました。この光景を見ていてもかつてここに線路が敷かれていたこと思い起こさせる、そんな光景でした。

そして振り返ると、そこには線路の車止めと停車中の列車の姿が見えました。もうこの先に列車が進むことはおそらく2度とない―そう思うとどこか寂しいものを感じました。

BRTの柳津駅から道路を通り駅前広場に出るとそこにはBRT用の真っ赤なバスが停車していました。そして振り返るとおしゃれな建て構えの駅舎が姿を現しました。柳津駅の駅舎には観光物産館「ゆうキャビン」が併設され、駅舎の中はカウンターのある木造カフェのようなおしゃれな造りになっていました。

駅舎の中には気仙沼線の写真が多数展示されていました。その中には、震災後の気仙沼線の被害の様子を写したものもありました(下にその一部を掲載します)。震災前の気仙沼線の様子を捉えたものもありました(1枚目)。しかし特に衝撃的だったのが、津波で線路が傾いたままの陸前小泉駅の写真(5枚目)、そして放置されたままの陸前小泉駅の残骸(6枚目)―あの日の津波被害の大きさを知るにはこの2枚だけでも十分でした。私はそんな津波被害を捉えた写真を見て少なからずショックを受け、そしてしばらく見入っていました。

しばらくして駅舎を出た私は鉄路の柳津駅を見収めた後、駅前広場に戻り再び通路を歩いてBRTの柳津駅へと向かいました。

気仙沼線BRT 柳津~気仙沼

柳津駅のBRT乗り場で待つこと数分、先ほど駅前にいた真っ赤なバスがやってきました。バスが来ると遮断機が上がり、BRT乗り場に停車しました。扉が開き車内に乗り込むと、バスの車内は首都圏を走る一般的なバスと概ね同じで特に違和感はありませんでした。ただ窓にシールが貼られていたため全体的に外が見えにくい状態となっており、どの席にするか少し迷ってしまいましたが(最終的には右側の前から2番目の席にしました)。

そしてBRTのバスは定刻通り午前11時36分に柳津駅を出発した。

そして気仙沼線BRTの普通・気仙沼行きのバスは午前11時36分に定刻通り柳津駅を出発しました。

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発車したバスはエンジン音を響かせながら専用道路をひた走ります。その様子はバスと同じですが、周りの土地から少し高い位置を走っている点や車線が1本しかない点、トンネルがいかにも鉄道のトンネルの感じである点など、所々でこの道がかつての鉄路であったことを思い起こさせました。

次の陸前横山駅は内陸部にあり津波の被害を免れたといいます。しかし駅は全面的に造り替えられたようでかつての駅の面影は残っていませんでした。

その後もバスは専用道路を走り次の陸前戸倉駅に到着しました。陸前戸倉駅は海岸から約600mほど離れた山間の谷底にあり、かつての駅のホームは地面から高く盛られた築堤の上に作られていたそうです。しかしあの日の大津波はそんな場所にあった駅のホームや待合室、階段や線路を全て押し流し、駅は周辺にあった集落と共に跡形もなくなっていたそうです。

さて、この陸前戸倉に到着する少し手前よりバスは南三陸町に入っていました。

南三陸町―この名前に聞き覚えのある方も多いでしょう。あの日の大震災で甚大な被害を受け、連日報道された街の一つです。死者は620人に上り、津波の高さは20mを超えていたそうです。特に津波に呑みこまれ赤い骨組みだけが残った3階建ての南三陸町防災対策庁舎は当時の報道でもたびたび取り上げられ、津波被害の凄惨さを物語っていました(屋上に避難した約30人のうち、助かったのは10人のみでした)。他にも、この防災対策庁舎で最後まで避難を呼びかける防災無線を流し続け殉職した若い女性職員、4階まで津波が押し寄せ看護師ら4人と患者67人が犠牲となった公立志津川病院(全入院患者は109人)など、数多くの悲劇がありました。

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陸前戸倉駅を出発したバスは引き続き専用道路を走ります。周囲の道路では未だ復興工事が行われていました。やがてバスは海岸沿いに出て車窓からは海が見えるようになっていました。

陸前戸倉駅を出発して約5分、バスの車窓に遮断機が見えてきました。どうやらここでバス専用道路とは一端別れを告げ、一般道に入るようです。

ここからバスは震災後に10m前後かさ上げされた国道45号を進んでいきます。この国道からは未だにかさ上げ工事が続く沿岸部の様子と、太平洋に続く志津川湾の姿が見えました。

そしてバスは一度国道を離れプレハブ造りの駅舎のある志津川駅に到着しました。

震災前の志津川駅はこのBRTの駅から西北西に約700mほど離れたところにありました。しかしあの日の津波は志津川駅をも容赦なく襲い、地上にあった駅舎は全壊、高さ約10mの築堤上にあったホームも屋根や看板、電柱などが全て流された無残な状態であったといいます。

今いるBRT志津川駅はBRTのバス停としては3代目となります。2012年8月にBRTが運行を開始したときはかつての志津川駅跡地の駅前広場にバス停が設置されていましたが、復興商店街「南三陸さんさん商店街」の開設に伴い北に約1km離れた場所にバス停を移転、そして2017年3月に「南三陸さんさん商店街」の移転に伴い現在の位置に再移転したそうです。

志津川駅は震災遺構となっている南三陸町防衛対策庁舎の残骸の最寄り駅ですが、今回は時間の都合上訪れることはできませんでした。

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志津川駅を出発したバスはその後、内陸部に入り上り坂を登っていきます。その先にあったのは震災後に高台の上に移転された志津川地区です。ここには復興公営住宅や町役場、病院など生活に必要な機能が集約されていました。

次のバス停は南三陸町役場・病院前駅です。バス停は2015年12月に完成した南三陸病院の敷地内にありました(南三陸病院は、津波で多くの犠牲者を出した志津川病院の後身にあたります)。そしてここを出発して間もなく、車窓には2017年9月に完成したばかりの南三陸町役場の姿も見えました。

あの日の津波で全壊して多くの職員が殉職した南三陸町役場と多数の入院患者が死亡した旧志津川病院。あの悲劇から7年以上が経ち、標高約60mの高台へと移転した南三陸町役場と南三陸病院は新たな一歩を踏み出しているようでした。

高台の上にある志津川地区の南側から入ったバスはバス停を出発した後、北側の道路から再び山を下り、谷間を走る国道45号と交差しました。しかしバスはそのまままっすぐ進み再び反対側の高台の上へと走っていきました。次の志津川中央団地駅は2018年の7月に開業したばかりの新しい駅で、高台に作られた志津川地区中央団地の中にあります。

志津川中央団地駅を出発したバスは再び山を下り、先ほどの交差点から国道45号へと入り北へと進みます。山を上り下りすること数回、車窓左手にはバス専用道として整備中の気仙沼線の鉄橋が見えてきました。歌津駅の少し手前にあるこの鉄橋は、あの日の津波で橋脚を残して全て流されてしまいました。今見えている橋はその後BRT専用道路のために新しく作られているそうです。

そして車窓から鉄橋や海が見えて間もなく、バスは国道を離れ歌津駅に到着しました。バス停はかつての歌津駅の駅前広場にあり、車窓からは新旧の歌津駅の共演が見られました。

この歌津駅にも津波は襲ったと言い、駅前広場にあった駅舎は全壊、築堤の上にあるホームや線路も全壊はしなかったものの大きな被害を受けたそうです。

BRT歌津駅を出発したバスは再び国道に戻るのかなと思いきや、駅前広場から細い路地を通り、かつての気仙沼線が走っていた築堤の上へと一気に駆け上がりました。そして左手に鉄路時代の歌津駅のホーム跡を見ながら右手のバス専用道路に入りました。

次の陸前港駅の手前から再び国道45号へと出たバスは、山を上り下りしながら北へと進んでいきます。その道中でたびたび目に入るのが津波浸水区間の始点・終点を表す標識でした(下の3枚目の写真はその一例)。この標識が見えるたびにバスが水の中に潜ったり出てきたりしている感覚に襲われるとともに、あの日、この一帯は水の中だったのかと実感させられました。加えて、その津波浸水区間の始点・終点の標識が、下の3枚目の写真のように丘の中腹などの標高が高い場所に設置されていました。あの日の津波がいかに高かったか、それを実感させられました。

そして右手車窓に土手が見えるようになって間もなく、バスは定刻通り陸前小泉駅を通過しました。陸前小泉駅は、BRTの始発・柳津駅の駅舎で見た凄惨な写真(めくれ上がった線路や駅の残骸)の舞台です。陸前小泉駅の前後の区間は標高10m前後の築堤や橋梁の上を走っていたといいます。しかしあの日の津波で、築堤上にあった陸前小泉駅のホームや待合室などの駅設備は完全に消失し、築堤も数m削られてしまったそうです。

下の1枚目の写真は、BRTの陸前小泉駅を捉えたものです。後の調べによると、背後に写っている盛り土(白い堤防の手前)のあたりがかつての陸前小泉駅の跡地であると推測されます。現在は堤防建設に合わせて盛り土の解体工事を行っているようでした。

また2枚目の写真のように、寸断された橋脚が津波被害の大きさを改めて物語っています。

バスは次の停車駅の本吉に到着しました。本吉では数分間停車時間があり、お手洗いに行きたい方は本吉駅の駅舎内のトイレを使ってくださいとのアナウンスがありました。その後、お手洗いに行った乗客を待って定刻より数分遅れで本吉駅を発車しました。

本吉駅を発車後はバス専用道路と一般道を行き来しながら北へと進みました。

そしてバスは定刻よりも3分遅れの13時33分頃に終点の気仙沼駅に到着しました。柳津駅を出発してから約2時間のバスの旅でした。

気仙沼駅

気仙沼駅に到着しバスの車内からホームを降りると正面には線路と列車の姿が見えました。

気仙沼駅は気仙沼線と大船渡線(一ノ関~盛)の2つ路線が乗り入れる宮城県沿岸の主要駅の一つです。あの震災の後、沿岸の地域を走る気仙沼線の柳津~気仙沼の区間と大船渡線の気仙沼~盛の区間は鉄路での復旧を断念しBRTによるバス運行で復旧が行われましたが、大船渡線の一ノ関~気仙沼の区間は内陸を走るためそのまま鉄路が残っており、気仙沼駅にも乗り入れています。

左(柳津・一ノ関方面)を向けば、左手の道路の奥に黄色い列車が停まっているのが見えました。黄色い列車の停まる3番線ホームへと向かうと、そこには線路の終端を表す車止めが設置されていました。かつては線路がこの先の盛方面へと続いていたはずです。しかし、列車が盛方面へと乗り入れることはもう二度とないのです。

今度はホームの盛側へと歩くと、そこには大船渡線BRT乗り場のバス停が設置されていました(2番線乗り場)。その奥には左側から伸びる線路と右手から伸びる道路が並走していました。しかし奥を見ると、線路の方が途中で途切れ、バス道路がその先も続いていました。かつては線路が奥へと続いていたはずなので、そう考えるとさみしいものがあります。

気仙沼駅は市の中心部から離れていることもあり、駅前はそこまで栄えてはいませんでした。内陸部にある気仙沼駅の駅舎は津波の被害を免れましたが、震災後の2012年に駅舎のリニューアルされたそうです。

 


この後、気仙沼の市街地に向かい昼食をとった後、大船渡線、三陸鉄道南リアス線と乗り継いでいきますが、今回の記事はここまでとなります。

続きは「2018年 東北縦断の旅・Part4ー三陸海岸縦断の旅(後編)~被災地・陸前高田の衝撃~」へ

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