2018年 東北縦断の旅・Part 2ー震災遺構・旧野蒜駅を訪ねて

1日目(後編)(2018年8月16日)
~震災遺構・旧野蒜駅を訪ねて~

(このページは2019年6月17日付で大幅な修正を加えました)

(「2018年 東北縦断の旅・Part1ー東北本線縦断&松島海岸ミニ観光」の続き)

仙石線の旅・後編

仙石線 松島海岸~野蒜

松島海岸での1時間のミニ観光を終えた私は、松島海岸駅に戻り16時5分発の普通・石巻行きに乗車、ここから仙石線の旅を再開します。

次の高城町駅を出発すると、列車は津波の被害が深刻で運転再開までに4年以上を費やした区間(高城町~陸前小野)に入ります。松島海岸駅を出発してからしばらくは車窓から海は見えませんでしたが、陸前富山駅を出ると車窓から再び海が見えるようになりました。

次の陸前大塚駅はホームが海に面していました。かつては護岸が低く海が一望できる駅だったという陸前大塚駅。しかしあの大震災の後、護岸が高くなり海は目線の上側に少し見える程度になっていました。

この陸前大塚から3駅先の陸前小野までの区間は、仙石線の中で最も甚大な被害を受け、復旧工事の過程の中で内陸側の高台の上に移設された区間です。かつては平野部の真ん中(東名運河沿い)を走っていたそうですが、あの大震災で甚大な被害を受けました。

特に有名なのが、当時のテレビでも出てきた東名~野蒜間で津波に流されたあおば通駅行きの普通列車。野蒜駅を出発した直後に被災した4両編成の列車は津波に流され、”くの字”に曲げられた凄惨な状態で発見されました(乗客は近くの小学校の体育館に逃げたため大多数は無事だったものの、数名が津波に呑まれ死亡したと言われています)。その他にも、野蒜駅を同じく14時46分に出発した石巻行きの快速列車も被災するなど、この区間では数多くの被害に見舞われています(快速列車は高台に停車したため津波の被害を免れ、車内に残った乗客も無事だったそうです)

また陸前大塚の次の駅・東名の被害もまた甚大だったようで、海岸線から約400m離れていたにも関わらず、線路がめくれ上がり、電柱が根こそぎ折れるなどしました。

この高台に移設された真新しい線路の上を走る仙石線の車内からは、かつて平地を走っていた仙石線の跡地や今の街の様子を見ることはできませんでした。しかしあの日、陸前大塚~陸前小野の区間を含む東松島市全体では、津波により死者1109人、市内の約65%が浸水し、家屋の約3/4が半壊以上の被害を被るなど、甚大な被害を受けました。

東松島市の被害状況と復興の様子(東松島市公式HP内)
https://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/1,17783,122,html
※写真数が多いため、仙石線の駅や路線の様子を直接見たい方はページ内検索で”仙石線”、”東名駅”、”野蒜駅”などと直接検索すると便利です。

震災遺構・旧野蒜駅を訪ねて

現在の野蒜駅

陸前大塚を出発して高台に移設された区間に入り6分後の16時23分、私は2つ隣の野蒜駅で途中下車しました。ここから震災遺構として整備保存されている旧・野蒜駅を目指しました。

野蒜駅では他にも乗客はいましたが、他の乗客はすぐに階段を上がったためか、ホームには私一人だけが取り残されました。現在の野蒜駅は2015年開業ということもありホームや線路が真新しいのが印象的でした。しかし同時にこの真新しさが故に、ホームに私以外誰もいないこの状況に対して寂しさも感じました。

ホームの仙台側から石巻方面に歩くと突き当りに真新しい階段が設置されていました。その階段を上り跨線橋を渡り、再び階段を降りると改札が見えてきました。

改札を出て真新しい野蒜駅の外に出ると、そこには真新しいもののどこか殺風景なロータリーが目に入りました。ロータリーにはタクシーがぽつんと一台停まっているだけで、人影もときどき見受けられる程度でした。またロータリーの奥には住宅も見えており、震災後に今の野蒜駅前一帯に住宅街が整備されたようでした。

そしてロータリーの左手にはれんが調の建造物がありました。この建造物は「野蒜駅連絡通路」の入り口で、高台の上にある北側の地区と、平野部にあたる南側の地区をつなぐ連絡通路となっています。

れんが調の建物の中に入ると、下り階段になっていました。階段を下り始めると明かりは多少あるものの全体的に暗めでした。加えて人感センサによって区間ごとに灯りが点灯する方式のため、まだ明かりがついていない先の区間は真っ暗でした。連絡通路の中には私一人だけ。そんな状態だったため少し怖かったです。しかしその中でも恐る恐る進んでいき反対側の出口に出ました。まだ夕方だったから良かったものの夜になるともっと怖かったでしょうね…

津波に襲われた野蒜地区を歩く

連絡通路の南口側の出口を出ると、歩道がタイルで敷き詰められた真新しいロータリーがありました。こちらにも車は数台停まっているものの人影は見えず、この空間は何だろうと不思議に思いながら奥に進むと、展望スペースのような形になっていました。そこからは緑で覆われた平地が広がっているのが見えました。ここがかつて津波に襲われた東松山市の野蒜地区です。

ロータリー奥に設置された階段から平野部に降りれるようになっていたため、その階段を降りると未舗装の道になっていました。スーツケースを持っていたため移動しづらかったものの、しばらくすると舗装路に出ました。周りには住宅がポツンポツンとあるだけで大部分は緑に覆われていました。

最初ロータリーの上からこの地区を見たとき、緑に覆われたのどかな風景が広がっているなと感じました。しかし実際に歩いてみるとそうではないということに気付きました。この今歩いている野蒜地区が緑に覆われている理由。それは、あの日の震災で大津波に襲われ、その後がれきが撤去されて更地になったところに緑が育ったためだと気付きました。

そう考えると何とも言えない感覚に襲われました。後に調べてみると、このあたりにはかつて住宅街が広がっていたそうですが、あの日の大津波は海から1km以上内陸のこのあたりまで来たそうです。つまり今歩いている場所がまさに津波に襲われた場所なのです。2018年現在、がれきなどは撤去されたものの、ここに住んでいて生き残った人たちの多くは高台へと移転しました。そのためにこのあたり一帯は更地となって放置され、そこに緑が育んだのです。

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そんな津波で流され、更地となってしまった地区を旧・野蒜駅方面に歩くこと約5分。と言いつつも体感ではもっと長く感じましたが、整備された公園にたどり着きました。その奥には震災遺構の旧・野蒜駅のホームがはっきりと見えていました。

この公園は「東日本大震災復興記念公園」という公園で、旧・野蒜駅のホーム保存と共に整備された公園です。ホームの手前側に進むとそこには立派な慰霊碑が建てられていました。

この野蒜地区を含む東松島市全体で亡くなった人は1109名にも及んでいます。私は慰霊碑の前で手を合わせて黙祷を捧げた後、奥に見えている旧野蒜駅のホームへと向かいました。

震災遺構・旧野蒜駅

先ほどの慰霊碑の奥に震災遺構の旧・野蒜駅のホームがありました。ホームの周りは柵に覆われていますが、その柵越しからでも旧・野蒜駅の様子が見て取れました。根元から折れた電柱、少し折れ曲がったかつての駅名標、そして折れ曲がった線路―あの日に何が起きたのかを感じるには十分でした。

慰霊碑がある旧野蒜駅の北側から仙台方面に歩いてホームの南側に回り込むと、旧野蒜駅のホーム越しに現在の野蒜駅の姿が遠目に見えました。そんな何とも言えない共演を背に白い建物―かつての旧野蒜駅駅舎の入り口側に向かいました。

駅舎の入り口は東名運河沿いの県道27号に面しており、ホームの南側・旧駅舎の西側は駐車場として整備されていました。駐車場の入り口にはこの公園の別名「復興震災メモリアルパーク」の看板が建てられており、私が訪れた時も数台の車が停まっていました。

まず旧駅舎の全景を取るために駅舎の入り口正面にある橋の上に向かいました。県道27号は車道こそは舗装されているものの、歩道は未舗装でパイロンや仮置きのガードレールなどが置いてあり、復興がまだ完全に終わっていないようでした。

そして橋の上から海沿いの方を見ると、そこからは海の姿は見えませんでした。つまり、この旧・野蒜駅周辺も十分海から離れているのです。あの日の津波はそんな内陸部までやってきた、そう実感させられた瞬間でした。

さて野蒜駅の旧駅舎は「東松島市震災復興伝承館」として整備されており、1階には某有名コンビニが入り、2階には震災当時の写真や映像が見れるスペースになっているといるそうです。しかしながら私が行った時にはすでに閉館時間を迎えており、2階の展示スペースの中に入ることはできませんでした。

そんな中、ふと駅舎入り口の右手の壁面を見てみると、そこにはあの日の津波でどこまで水没したかが分かる目印が書かれていました。津波の高さは3.7m―私の背の2倍以上の高さもありました。海岸線から約1km、今私が立つこのあたりはあの日の大津波で完全に水没していたのです。あの時もしここにいたら完全に水の中、いや濁流の中だと―そう考えると恐ろしくなりました。

駅舎の右手から裏側に回り込むとホームの入り口が見えました。ホームに続くスロープの手すりは折れ曲がり、1番線・2番線ののりば案内の看板は共に支柱が曲がっていました。

そしてそんな旧野蒜駅の光景を背に、私は高台の上に移設された今の野蒜駅へと向かって元来た道を戻りました。

仙石線 野蒜~石巻

旧野蒜駅から歩くこと約12分、私は再び真新しい野蒜駅に戻ってきました。そして真新しいホームのベンチで待つこと数分、17時23分発の普通・石巻行きが入線しました。私はこの列車に乗り終点の石巻駅を目指します。

野蒜駅を出てしばらくすると車窓の右側が開けました。そこからは緑の大地と奥にうっすら海が見えるだけでかつてあったはずの住宅らしきものは見当たりませんでした。

列車はいつしか石巻市内に入り車窓には住宅や店舗などの建物が見受けられるようになってきました。そして野蒜駅を出発して25分後の17時48分、列車は終点の石巻駅に到着しました。

石巻は漁業で有名な宮城県第二の都市で、石巻駅はその玄関口となる駅です。石巻駅には仙石線の他に小牛田と女川の間を結ぶ石巻線も走っていますが、日も暮れかけているため、今日の旅はここまでとしました。

日が沈む石巻の街へ

石巻駅を出た私は、東南方向に歩くこと約7分のところにある「サンプラザホテル石巻」にチェックインしました。そして夕飯を食べるために日が沈み始めた石巻の街へと繰り出しました。

向かったのはホテルから徒歩7分ほどの「いしのまき元気いちば」です(石巻駅からは徒歩約10分)。「いしのまき元気いちば」は旧北上川沿いに建てられた観光交流施設で、2017年6月にオープンした木造・ガラス張りの新しい観光施設です。

明かりで照らされた建物の1階に入ると、そこは特産品売り場となっており石巻や三陸海岸沿いの街の特産品などが売られていました。そして奥に進み2階に上がると目的の食堂に到着しました。

2階の食堂「元気食堂」も木造・ガラス張りでこちらはシックなただ住まいですが、時間帯が日の暮れかけということもあり広いスペースの中に客は数名しかいませんでした。私は窓際に座り注文した海鮮丼ができるのを待ちました。

窓からは旧北上川とその中州の上に建てられた「石ノ森萬画館」の真ん丸な白い建物が見えていました。「石ノ森萬賀館」は漫画「サイボーグ009」や「仮面ライダー」などで有名な漫画家・石ノ森章太郎の世界観を表現したミュージアムで、石巻の有名な観光施設の一つです。

そして手前側に視線を落とすと未だ工事中の護岸が見えました。石巻駅周辺や今日宿泊したホテル周辺では工事が行われている様子はなかったですが、今いる「いしのまき元気いちば」の周り・旧北上川の川沿いは多くが工事中の状態でした。

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あの日、石巻市も津波により壊滅的な被害を受け、当時からあった「石ノ森萬賀館」周辺の旧北上川沿いでは5mの津波が襲ったそうです。石巻市内の死者は市町村別では最悪の3,552名、行方不明者は420名。市街地にあたる石巻駅周辺は高台を除く全域で水没し、その他の沿岸部でも壊滅的な被害を受けました。

当時の報道に出た被害だけでも数多くありました。避難中の生徒78名・教職員11名が流され生徒74名・教職員が10名が犠牲となった大川小学校。指定避難場所でありながら津波で全壊し50名以上の死者を出した石巻市北上総合支所。入院患者と職員の計65名が流され62名が死亡した雄勝病院。6mの津波に襲われ後に火災に見舞われた門脇小学校(在校中の生徒・職員、小学校に避難した住民は裏手の日和山へ避難し全員無事)。幼稚園の送迎バスが流され炎上し5名の園児が犠牲になった日和幼稚園。あの日の石巻の街は、これだけの甚大な被害を受け数多くの悲劇に見舞われたのです。

石巻市の被災写真(石巻市公式HPより)
http://www.city.ishinomaki.lg.jp/d0110/d0100/d0060/d0010/index.html

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今いる「いしのまき元気いちば」の周辺は7年以上経った2018年時点でも完全には復興していない様子でした。そんなことを考えながら2階の食堂で海鮮丼を食べた私は旧北上川を背にホテルへと戻りました。

 

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